法窓夜話6~10

穂積陳重著「法窓夜話」の続編,今回は6~10を取上げます。

法窓夜話

 法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容をまとめておこうと思い立ちました。今回は,6話~10話をまとめておきます。

 法窓夜話の1話~5話:法窓夜話1~5

6 ソクラテス,最後の教訓

 悪法でも法で,有名なソクラテスが処刑される際のクリトンとのやり取りです。ソクラテスは,釈迦,孔子,キリストとともに四聖人に数えられる人です。プラトンの師匠で,ソクラテスの思想は,そのプラトンの著作を読むことで知ることができます。

 ソクラテスは,誰彼構わず議論を吹っかけて,自分がアポロンの宣託通り,最も知恵のある人なのかを確かめようとしていた。ソクラテスは,その際,みんなが無知であることを自覚してないこと,自分は無知を自覚してるという優位性,宣託は正しかったということを確信していく。ソクラテスが賢者だという評判が広まりましたが,無知だと指摘された人などソクラテスを良く思わない人も多くいた。そんな人たちが,ソクラテスは新宗教を広めて国教を転覆しようとしている,さらに,詭弁を弄して若者を惑わしているとして裁判にかけられることになる。裁判の結果,ソクラテスは有罪となり死刑を宣告された。

 死刑執行の前日,弟子のクリトンがソクラテスを訪ね,裁判は不正だ,刑罰も不当だとして,脱獄を勧めた。しかしソクラテスは,以下のようにクリトンに語る。

 脱獄することは,法律と国家を破壊することになる。私人の判断で法律に違反することは国家の基礎を覆すことになる。いかなる裁判でも国家が宣告した以上,従うべき。悪法でも誤った裁判でも,これを改めない以上,違反するのは不正だ。

 アテネの法は,法律に不満がある者は,アテネを去ってどこへ行くのも許している。アテネの法を知り尽くしながら,アテネにとどまっているのは,アテネの法に従うという誓約をしたのだ。自分が不利になったとたん,法を破るのは,その誓約に反する。自分は戦争以外でアテネを出たことはない。これはアテネの法に不服がないことを立証するものである。アテネを去るのに70年も機会があったのに,今さら法を破るのは,誓約に反する。

7 大聖の義務心

 これもソクラテスの話しです。ソクラテスの遺言というか,最後の言葉(?)が紹介されています。

 死刑を宣告されたソクラテスは,毒杯を仰ぎ,まさに死に臨もうとしていた。毒を飲んだ後もソクラテスは即死せず,しばらく室内を歩いていた。徐々に身体に毒が回ってくるのを感じながら,ソクラテスは,クリトンに対し,「アスクレーピオスから鶏を借りている,負債の返済を忘れるな」と言い残した。

8 副島種臣伯と大逆罪

 ここからは,副島種臣の話しが続きます。副島種臣は,佐賀藩出身の明治時代の政治家です。

 明治2年,明治政府は,大宝律令や唐律,明律,清律を参考に刑法の編纂を始める。その草案を見た副島種臣は激怒する。草案に大逆罪が規定してあったからだ。副島種臣は,日本に天皇や朝廷に盾突くような人はいない大逆罪なんていらないということで,規定を削除させる。

 その後,西洋に通じる本格的な刑法を作るべく,明治10年にボアソナードが刑法を草案する。草案に天皇の身体に対する罪と内乱罪の規定があり,問題となるが,伊藤博文がそれらの規定を残すことを決めた。

9 大津事件

 有名な大津事件について紹介されています。

 事の発端は,大津で巡査の津田三蔵がロシア皇太子を襲撃し負傷させてします。明治政府はこの事件の後始末に頭を抱えることになる。当時の刑法は殺人未遂は,無期懲役以上の刑に処すことはできなかった。ロシアに忖度した政府は,検事総長命じて,日本の皇太子に危害を加えた者は死刑という条文で津田を起訴させる。

 しかし,大審院院長(最高裁判所長官)の児島惟謙が,政府の圧力に屈しないよう裁判官を説得し,津田を殺人未遂で無期懲役とする判決を下し,司法権の独立を守った。

 大津事件自体は有名なので,事の顛末に大きな驚きはありません。ただ,興味深いのは,大津事件について,副島種臣が「法律もし三蔵を殺すこと能わずんば種臣彼を殺さん」と物騒なこと言ったことに対し,穂積陳重が「三蔵を殺すの罪は、憲法を殺し、刑法を殺すの罪よりは軽い」と,冗談なのかよくわからないことを言ったと紹介されていることです。

10 副島種臣と量刑の範囲

 刑法に限らず,刑罰を科す法律は,たとえば,「5年以下の懲役」とか「10年以下の懲役」というように規定されています。

 明治政府が最初に刑法の編纂を始めた明治3年頃,編纂に関わった委員は,全員,中国の学者であった。草案では中国に倣って一つの罪に一定の不動の刑を定める形を取っていた。フランス刑法を翻訳させた副島種臣は,量刑に軽重,長短を定めるべきと主張した。副島種臣の主張は,最先端すぎて受入れらず,明治13年の刑法でようやく採用された。

♪Mr.Children「フラジャイル」(アルバム:B-SIDE収録)

Follow me!