法窓夜話43-45

穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,43話~45話を取上げます。

法窓夜話

 法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,43話~45話を取上げます。

 法窓夜話1話~5話:法窓夜話1~5

 法窓夜話6話~10話:法窓夜話6~10

 法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15

 法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20

 法窓夜話21話~25話:法窓夜話21~25

 法窓夜話26話~30話:法窓夜話26~30

 法窓夜話31話~35話:法窓夜話31~35

 法窓夜話35話~40話:法窓夜話35~40

 法窓夜話41話・42話:法窓夜話41・42

43 ゴルチーンの石壁法

 43話は,ゴルチーンの石壁法というタイトルになってますが,エーゲ海のクレタ島のゴルテュン法典の話しです。ハンムラビ法典みたいな感じで展開されています。

①発見の前駆

 ギリシャのクレタ島は,ヨーロッパで最も古くに法制が整った場所として有名である。ゴルテュンは,クノッセ・ソクトースと並び,同島の三大都府の1つの市府で,古代は貴族政治が行われ,一定の貴族が交代で政治を行っていた。立法権は市民議会に属し,司法権は同島を数個の裁判区に分け,単独判事がこれを行っていた。

 フランスのトノンは,クレタ島で,古文を彫刻してある1個の石片を発見した。刻まれている文字は断片的ではあるが,おそらく,養子に関する法律の規定で,ゴルテュン法典の一部と考えられる。

 その後,アウッスーリエーが2個の石片を発見した。1つには,婚約に関する規定が,もう一つは,判読するのが困難であるが,おそらく,女性戸主の財産に関する規定と考えられる。

 この2つの発見により,後の学者は,アッスルバニパル王の図書館の遺跡を発掘した際に発見した石片がハンムラビ法典の発見の先駆けとなったように,いつか,この法律の全容が明らかになるのでは?という希望を抱くようになった。

②壁法の発見

 1884年の夏,クレタ島のハギオイ・デカというゴルテュンの遺構のレートホイズ河から引いた水車溝の中に,偶然,古文字が彫刻してある壁石が現われた。水車の持主のマノリス・エリヤキスが,このことをフレデリコ・ハルブヘール博士に話したところ,博士はとても喜んで,すぐに,その壁の発掘およびその古文字の謄写に着手した。秋になり,エルンスト・ファブリチウス博士の協力を得て,ついに,石壁すべての発掘を終え,石壁に彫られた法文の謄写を終わった。結果,先に発見された数個の石片は,この石壁の破片で,トノンの発見した石片は,その法律の第58条~第60条であり,アウッスーリエーの発見した2つは,第39条と第48条であると判明した。しかし,石壁中にはなお数個の石片が欠落しているものがある。これは,おそらく,先に水車構を発掘した際に取り除かれ,失われたと考えられる。

③石壁法

 発掘された石壁は,直径33メートルの円形の大建築物の周囲壁で,内側に法文が牛歩状に彫られている。牛歩状とは,右端から横線を左へ走り,左端で旋回して右に進み,右端でまた旋回して左へ進む書き方のことをいう。まるで,牛が田んぼの畦道を鋤く際の歩き方に似ているので,こう呼ばれ,かなり古い書き方である。

 彫刻の高さは,172センチメートルで,人が立って読むのに適した高さで,横幅は,全体で約9メートルある。法文は,壁石の合せ目にかかわらず彫刻してあり,全部を12の縦欄に分け,各欄毎に53~55行を刻み,各行毎に20文字~25文字あり,文字は赤色で明白に読めるようにしてある。

 当時は法律を銅板に彫って,公布する例があった。この円形の建物は裁判所だったので,その壁に法律を彫って,公示してあったものである。

④石壁法の年代

 石壁法を誰が作ったか?いつ作ったのか?は,まだ,定説がない。法律の年代の考証論は非常に興味深いが,夜話の話題にするのは不適当であるが,素人にもわかりやすい例をいくつか挙げておく。アリストテレスと同時代のエフォロスの「クレート誌」には,石壁法で初めて定められた法則を記載しているので,アリストテレの時代より前に出来たものである。ドシアダスの書いている娼妓のことは,石壁法より進歩したものなので,同氏が記した紀元前280年より以前に制定せられたものである。また,形式主義に至っていないこと,その規定の体裁が因果法であって命令法でないことなど,この石壁法は原始法の属性に富んでいる。一方で,私法規定の成文法となっていること,規定が抽象的であること,道徳法律が混在していないことなど,原始的法律の性質を脱しているように見える点も少なくはない。しかし,クレタ島は,昔から法律で名高い所であり,ミノスが神から法律を受けたという伝説があり,ソロン・リクルグスといった大立法家もクレタ島に渡って,法律を調べたというので,古代から法律思想はかなり進んでいたものである。

⑤石壁の内容

 ゴルテュン法典は,12に分けられているので,「ゴルテュン十二表法」と呼ぶ学者もいる。この石壁法は,1個の法典だが,国法の全部又は一種類の法律の全部を含んでいるものではない。この法律の内容は私法的規定で,特に,親族法・相続法及び奴隷法に関するものが多い。刑法その他公法的規定が全く掲げられておらず,私法もその一部に限られている。これは,おそらく,この法律が裁判所の壁法なので,その裁判所の管轄に属している事件,つまり,この場合は,人事法だけを規定しているのであろう。このように,石壁法は私法の一部だけを掲げたものであり,その他の部分は旧法をそのままにしたものである。この石壁法中にも,旧法をそのままに成文法にしたものと,旧法を改めたものとがあることが,法文中にも現われている。

44 エジェリヤの涙泉

 ローマ市外のそれほど遠くないところに,神聖の森という森がある。樹齢1000年にもなる樹々がうっそうとしていて,昼間でも暗い場所である。その森の断崖に,レンガを積み上げて作られた瓦壁がある。瓦壁の中央のくぼんだ所に,横たわる女神像が安置してある。女神像の下から水が流れ出ているが,この女神像は,エジェリアである。

 後のローマ帝国の基礎を固めたとされるヌマ・ポンピリウスが,女神エジェリアの恋愛を受け,しばしば,カメーネの森(水神の森)で密会したという神秘的恋物語の旧跡が,この神聖の森であり,ここでヌマ・ポンピリウスは女神の教えに従い,その礼法を制定したと今日まで言い伝えられている。

 ローマの建国は,ロムルスの軍事力と勝利によること多かったとしても,これに次ぐヌマ・ポンピリウスの立法がなければ,世界帝国の礎を築くことはできなかったであろう。もともと,ヌマ・ポンピリウスは,被征服者サビーニ人だったが,ロムルスの後,市民から推され,王位に就いた。人民を統制するには,信仰と法律によらなければならないと,早くに気づいた。ヌマ・ポンピリウスの政策として,宗教的儀礼を制定し,人民に,その儀礼によらしめることに努めた。神の力を借り,法の力を強くし,人民を規則の下に統制しようというのは,古代の英雄の常套手段である。

 ヌマ・ポンピリウスはピタゴラスの哲学を修めたともいうが,ピタゴラスの教えを受けても,宗教的礼法を定めたのだという。とにかく,表向きにはヌマ・ポンピリウスはローマ郊外の水神の森において女神エジェリアに会い,その教えによって礼法を定めたと,自ら称していた。

 ヌマ・ポンピリウスは女神エジェリアの切なる寵愛を受け,しばしば,カメーネの林中にて人目を忍ぶ会合を行い,礼法の制定について女神の教えを受けていた。ヌマ・ポンピリウスが死亡し,エジェリアは,初めて,人との別れを知り,天にあこがれ,地に嘆き,森の中で,何日も泣き明かした。そして,その涙に体が溶けて,林中の一湧泉となり,今もなお一つの清泉となって女神像下に流れ出ている。これが,エジェリアの涙泉であると伝えられている。

 穂積陳重たちが,エジェリアの遺跡を訪れた際,穂積陳重は,タバコを吸いながら,この話しを岡田朝太郎博士らにしていた。帰ろうという時に,穂積がタバコの口を切ったナイフが見当たらず,皆に尋ねたが,見つからず,涙泉に落としたのだろうと思った。すると,岡田が,こんな句を詠んだ。

 エジェリアがワイフ気取りの聖森(ひじりもり) ナイフ落としてシクジリの森

45 伊達氏の法典「塵芥集」

 「塵芥集」は,伊達家13代稙宗が天文5年に制定した法典の名である。稙宗は,しばしば,隣国と戦って勝利し,将軍足利義稙より名を賜り,稙宗と名乗り,奥州探題となって東北を征服した人物である。稙宗は,晩年,治平の策を講じ,天文2年に質物の法を定め,同5年に家老評定人らと議して式目169条を定めた。

 この法典には,2つの特徴がある。1つは,塵芥集は169条あり,貞永式目と比べ3倍以上あり,武家の法典で最も緻密なものといえる。もう一つは,法典が仮名で書かれていることである。また,私法に関する規定は比較的に多く,売買・貸借・質入・土地境界・婚姻・損害賠償等の規定は緻密で,数10条に上っている。これらもまたこの法律書の特色ということができる。

♪Mr.Children「So Let’s Get Truth」(アルバム:深海 収録)

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