法窓夜話46-50

穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,46話~50話を取上げます。

法窓夜話

 法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,46話~50話を取上げます。

 法窓夜話1話~5話:法窓夜話1~5

 法窓夜話6話~10話:法窓夜話6~10

 法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15

 法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20

 法窓夜話21話~25話:法窓夜話21~25

 法窓夜話26話~30話:法窓夜話26~30

 法窓夜話31話~35話:法窓夜話31~35

 法窓夜話35話~40話:法窓夜話35~40

 法窓夜話41話・42話:法窓夜話41・42

 法窓夜話43話~45話:法窓夜話43-45

46 山本大膳の五人組帳

 江戸時代に,農民を統制するために実施された五人組の話し。

 五人組の起源は明らかではないが,寛文年間には五人組帳があったことは確かである。五人組の規則は,五人組の名前が書いてある帳簿の前に載せてあるので,通常これを「五人組帳前書」といった。この前書の条数は、年ごとに増加し,元禄以後,ますます多くなったようである。穂積が所有している元禄年間の五人組帳前書は23か条しかないが,享保年間の五人組帳前書は64か条ある。

 その後,天保7年に,幕府の代官の山本大膳が,享保の五人組帳前書を増補修正して145か条の五人組規則を定めた。これが,有名な山本大膳五人組帳である。

47 大木司法卿の造語造字案

 法は国民意識の表現であるというくらいなので,一国の法を他国に継受することは,決して簡単なことではなく,多くの心労と,多くの歳月を要し,国民の実情に合い,その時に必要なものだけを継受することができる。

 明治維新当時の政治家は,過去に,世の中の情勢を一変される事業を成し遂げたので,かつては夢にも思わなかった西洋の文化を見て,将来的に,条約改正が必要なので,わが国に西洋の様々な制度を移植できると考えていた。

 その中でも,江藤司法卿がフランス民法を翻訳して,日本の民法にしようとしたのは,最も大胆なものであった。その後,大木司法卿も西洋の法律をわが国に輸入するに当たり,訳語を作るのが困難であった。さらに作った訳語は,日本にはない概念なので,国民にとっては新語であった。そのため,外国語の発音をそのままにする方が,外国と日本の両方で通じるので,新字を作って,外国語の音を当てればいいと考えた。そこで,省内に委員を置き,中国語に精通していた鄭永寧氏等に法律語の新字を作らせることになった。明治12年に委員の案ができて,明治16年に「法律語彙」として出版された。

 「法律語彙」は,1170頁以上の大部で,法律用語をa,b,c順に並べ,それに訳語または新語・新字を付し,本義・釈解・参照が添えてある日本の法律史上無類の奇書である。

 その一例を挙げると,

 Acte:亜克土(アクト)行為,証書

 Donation:陀納孫(ドナジオン)贈与

 数年間,多大な労力と費用をかけて,大きな餅を画いたのは,おもしろい現象と言わざるを得ない。

48 法律の学語

 現在,用いられている法律用語の多くは,西洋の学術用語が起源で,日本語又は中国語が起源のものは極めて少ない。西洋の学問が日本に入った後,翻訳して日本の学術用語を作るのは,骨の折れる作業であったであろう。

 ものぐさな人を罵って,「縦のものを横にもしない」と言うが,縦のものを横にしたり,横のものを縦にするほど面倒な仕事はないと,和田垣博士が「吐雲録」の中で述べている。

 蘭学者が初めてオランダ語を日本語に訳したときの困難は非常なものであったが,明治の初めに,法学者が初めて法律用語を作った苦労も一筋縄ではいかない。

 西洋法学の輸入や法律用語の翻訳・作成は,津田真道・西周・加藤弘之・箕作麟祥の4人に負うところが最も多い。津田先生の「泰西国法論」,西先生の「万国公法」,加藤先生の「立憲政体略」「真政大意」「国体新論」及び「国法汎論」,箕作先生の「仏蘭西六法」の翻訳などにより,明治10年前後には日本語で西洋の法律を説明することは,かろうじてできた。しかし,明治20年頃までは,日本語で法律の学説を講義することは,まだ,かなり難しかった。

 穂積が明治14年に東大の講師になった時,教科は外国語を使っていて,学生が使う教科書も外国の教科書だった。講義も英語で行っていた。そのため,日本語で法律学の講義ができる日が一日でも早く来ないとダメだと感じ,法学通論の講義から始め,年々1科目,2科目と日本語での講義を増やし,明治20年頃になり,初めて,法律用語も大体定まり,不完全ながらも他の科目とともに,日本語で講義できるようになった。

 法律学を国有化するするには,まず,用語を定めるのが急務であるが,諸先輩たちの定めた用語だけでは不十分だったので,明治16年頃から穂積は,宮崎道三郎・菊池武夫・栗塚省吾・木下広次・土方寧と法律用語の選定会を週1回以上開催した。一方,同時期に大学法学部に別課を設け,すべて日本語で講義することを試みた。

49 法理学

 明治3年閏10月の大学南校規則には,「法科理論」となっている。日本最初の留学生で西洋法律学の開祖の一人なる西周助は,文久年間にオランダで学んだ学科の中 「Natuurregt」 を「性法学」と訳した。司法省の法学校では「性法」といい,また,フランス法派の人はこの学科を「自然法」と言っていた。

 明治7年に東京開成学校に法学科を設けられた時,この学科は置かれなかったが,翌年に「法論」という名称で設けられた。明治14年に穂積がこの学科を受持つようになり,僧侶に「法談」という言葉があり,「法論」というと,談義のように聞こえ,少し線香臭いように感じ,かつ,学名に「論」が入ってるのが気に入らなかったので,「法理学」と改めた。もっとも,「Rechtsphilosophie 」を翻訳して「法律哲学」としようかとも思ったが,哲学は世間では,形而上学に限られているように思っている人もいるので,どんな学派の人が受け持っても差支えないように,「法理学」とした。

50 憲法

 憲法という言葉は昔から広く使われていて,聖徳太子の「十七条憲法」は最も名高いものである。しかし,近年に至るまでは,現在のように国家の根本法という意味では用いられていなかった。

 江戸時代に「憲法部類」という有名な書がある。これは,享保以下の諸法令を分類収録したものである。また,同じく有名な書で「憲法類集」というのがある。これは,天明7年から文政12年に至る法令を分類編纂したものである。これらから,当時の「憲法」という用語は,広い意味で使われていて,総べての法規を含んでいたということがわかる。

 明治になり,明法寮で編纂した「憲法類編」という書物がある。これは,現在でいう「法令全書」のようなものである。また,明治10年から司法省で「憲法志料」が出版になった。これは,故木村正辞博士の編纂で,推古天皇から後陽成天皇の慶長年中に至るまでの法文を集めたものである。ここでも「憲法」という用語は,法令という意味で使われている。

 憲法という重々しい用語を用いると,重要る法律を指すように聞こえるが,決して現在のように国家の根本法のみを指すものではなかった。したがって,西洋の法律学が日本に入って来たとき,学者は,「コンスチチューシオン」や「フェルファッスング」などに当てる新語を作る必要があった。中国語にも相当する訳語がなく,安政4年に上海で出版された「聯邦志略」には,合衆国の「コンスチチューシオン」を「世守成規」と訳してあった。また,福沢諭吉の「西洋事情」では,合衆国の「コンスチチューシオン」を合衆国「律例」と訳している。加藤弘之の「立憲政体略」には,「国憲」と訳され,「国法汎論」にも「国憲」が用いられ,「憲法」は,成文法の訳として用いられた。また,津田真道の「泰西国法論」には「根本律法」または「国制」「朝綱」が用いられていた。

 憲法を国家の根本法という意味で用いたのは,明治6年の箕作麟祥博士の「「フランス六法」で,「コンスチチューシオン」を「憲法」と訳したのが最初である。しかし,当時の学者は,「憲法」は通常の法令を指すので,箕作の訳は間違っていると言っていた。大日本帝国憲法を起草した井上毅でさえ,明治8年に,プロイセン憲法を訳し時には「建国法」という用語を用いた。明治8年の「東京開成学校一覧」には箕作博士の訳語により「憲法」としてあるが,翌年には「国憲」と改まっている。明治13年の東京大学の学科も「国憲」となっている。

 明治天皇が憲法制定の勅命を出し,伊藤博文が憲法取調の勅命を受け,「憲法」が「コンスチチューシオン」,「フェルファッスング」などに相当する用語となり,帝国大学でも,明治19年以降,憲法という用語を用いるようになった。

♪Mr.Children「ALIVE」(アルバム:BOLERO収録)

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