法窓夜話51-55

穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,51話~55話を取上げます。

法窓夜話

 法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,51話~55話を取上げます。

 法窓夜話1話~5話:法窓夜話1~5

 法窓夜話6話~10話:法窓夜話6~10

 法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15

 法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20

 法窓夜話21話~25話:法窓夜話21~25

 法窓夜話26話~30話:法窓夜話26~30

 法窓夜話31話~35話:法窓夜話31~35

 法窓夜話35話~40話:法窓夜話35~40

 法窓夜話41話・42話:法窓夜話41・42

 法窓夜話43話~45話:法窓夜話43-45

 法窓夜話46話~50話:法窓夜話46-50

51 民法

 民法という言葉は津田真道が,慶応4年に作った。民法という言葉は,箕作麟祥がフランスのコード・シヴィールの訳語として用いられてから一般に広まった。そのため,穂積は,箕作麟祥が作った訳語だと思っていた。穂積がそのことを箕作に尋ねると,箕作は,自分が作ったのではなく,津田の「泰西国法論」に書かれていたのを採用したとのことだった。そこで,津田に尋ねると,自分がオランダ語のブュルゲルリーク・レグト(Burgerlyk regt)の訳語として新たに作ったものとのことだった。

 法律の訳語は,案が出されてから,何度か変更され,その後に一定したものが多いが,民法だけは,当初から一度も変わることなく,また,他の案が出されることもなかった。

52 国際法

 国際法という言葉は,西洋でも多くの沿革があり,始めは万民法(jus gentium)と混ぜられ,または自然法(jus naturale)の一部として論じられ,グロチウスの「平戦法規論」が出た後も,この種類の法規に対する独立の名称はなかった。

 1650年に,オックスフォード大学のザウチ博士が, jus inter gentes(国民間法)という名称を付けてから特別な名称ができた。フランスでも1757年に,ダゲッソーが,Droit entre les nations または Droit entre les gens(国民間法)という名称を用い,1789年にベンサムがInternational lawという新語を作った。その後,この言葉又はその訳語を一般に用いるようになった。

 ドイツでは,Internationales Rechtという訳語を用いることもあるが,通常は,Voelkerrechtという語を用いている。この言葉を誰が作ったのかは,わからないが,1821年のクリューベルの「ヨーロッパ国際法」(Klueber, Europ※(ダイエレシス付きA小文字)isches Voelkerrecht)などが最も古い例の一つと思われる。

 日本では,当初,「万国公法」という名称が用いられた。これは,アメリカのウィリアム・マーチンが,がホウィートンの著書を中国語に訳した際に「万国公法」と題して,出版したことによる。この本は,翌年に,東京大学の前身の開成所で翻刻出版された。当時の日本人は,初めて,各国の交通にも法規があることを知る有様で,識者は,こぞって,この本を読んだ。そのため,この本は広く読まれ,註釈しまたは和訳した「和訳万国公法」「万国公法訳義」などの本も広く読まれた。

 ウィリアム・マーチンがインターナショナル・ローを「万国公法」と訳したので,この名称は,日本では広く浸透したが,その後,中国では,単に「公法」と称するようになった。ウィリアム・マーチンがウールジーのインターナショナル・ローを訳述した際は,「公法便覧」と題し,本文中も「万国公法」という言葉は用いず,すべて「公法」とした。これは,ウールジーが,インターナショナル・ローはキリスト教国間の通法で,万国共通の法ではないと書いているからであろう。

 明治7年,東京開成学校において法学の専門教育が始められた時の規則には「列国交際法」とある。当時の国際法の本は,ホウィートンとウールジーの2つだった。ウールジーの本は,わかりやすい教科書だったので広く読まれ,その始めに,インターナショナル・ローはキリスト教以外に行われないと書かれていたので,「万国」という言葉を避け,「列国」を用いた。東京開成学校が東京大学となった後も,「列国交際法」となっていたが,明治14年に学科改正を行うた時から「国際法」の語を用いるようになった。

 「国際法」という名称を誰が作ったのかというと,それは,箕作麟祥博士である。箕作が明治6年に,ウールジーのインターナショナル・ローを訳述した際に「国際法」と題した。「国際」の語は最もインターナショナルの原語に適当していたので,その10年後には,大学においても学科の公称として採用され,広く一般に広まった。この点で,箕作はわが国のベンサムである。

53 国際私法

 「国際私法」という名称は,ウィリアム・マーチンが「万国公法」の中で「公法私条」という名称を用いたのが始まりである。その後,西周がフㇶスセリングの講義を訳して,「万国公法」と題して出版したものの中で「万国私権通法」という名称を用いた。また,津田真一郎の泰西国法論」中には「列国庶民私法」とある。明治7年の東京開成学校規則には「列国交際私法」となっているが,津田の訳の方がいいようである。その後,若山儀一という人が「万国私法」と言う本を出した。

 明治14年まで大学では,「列国交際私法」と言っていたが,国と国とが交際をするときの私法規則のように聞えるので,「国際私法」に改められた。 

54 法令の由来

 法例とは,法律適用の通則を収集したものをいう。日本では,明治13年に「法令」という言葉が用いられている。明治30年に穂積が,法典調査会で山田三良の補助の元,現行の法例を起草した際に「法令」の由来を調べた。

 中国の刑法法典編纂の端緒は,魏の文侯が,李悝に命じて,諸国の刑典を集めて法経六編を制定させたことにある。李悝は,その法典全部に通じる例則を総括して法典の末尾に置き,それを具法と名付けた。秦の商鞅が法という語を改めて律と称した後,全法典の通則を具律というようになった。漢の蕭何が律九章を定めた時も,具律と称した。魏の劉劭が魏律十八編を制定した時は,刑名律とし,これを全法典の冒頭に置いた。

 晋の賈充が漢・魏の律を増減して作った晋律二十編には,魏の刑名律を分けて,刑名律・法例律の二編とした。「法令」という言葉の始まりは,おそらくこれだろう。法例という語は,法律適用の例則という意味に用いられたのである。

 その後,宋・斉・梁および後魏の諸律は,刑名律・法例律の称号を踏襲したが,北斉に至って刑名・法例の二律を併せて一編としてこれを名例律と称した。後周は,一度刑名律なる名称を復活させたが,隋唐以来清朝に至るまで,北斉の例にならい,刑法の通則を名例律の中に置いたので,法例という用語は途絶えた。

 明治13年に刑法を改正した際,第一編第一章に刑法適用の通則を掲げて,これを法例と題した。これは,晋律の用例にならったもので,北斉以来,法典上に絶えていた用例をわが国で復活させたのである。

 明治23年,民法その他の法典が公布された際に,法律第97号で一般法律に通じる例則を発布して,これを法例と称した(現在の法の適用に関する通則法)。ここで,法例という語の用例が一変することになる。従来は,刑法の通則に限って用いられていたが,広く法律通用に関する総則に用いるようになった。

 このように,初めは刑法にのみ用いた語を,一般の法律に通用するようになるのは,法律沿革史上,よく見られることであって,諸国の法律は,最初に刑法・訴訟法などのようなものがその体裁を整備するので,これらの法律の用語を他の法律に転用するようになることは,決して珍しいことではない。

 その後,商法改正案においても,「総則」という名称を改め,「法例」としてこれを題号に採用した。ここで,わが国の法律において,法例という語に2つの用例が生じることになった。一つは,一般に各種の法律に通ずる法例で,もう一つは,その法典中の条規の適用に関する例則である。この2つの法例は,一般法と特別法の関係にあるので,前者を一般法令,後者を特別法令と称することができる。

55 準拠法

 穂積が明治29年法典調査会において法例を起草した際,マイリなどのドイツ国際私法論者が準拠法という言葉を用いた。Massgebendes Recht という言葉に当てはめた訳語で,初めてこれを法例理由書の中に用い,その後広く用いられるようになった。

 準拠という言葉は,「延喜式」の序にも用いられている。また,明応4年8月の「大内家壁書」の中に用いられている。もっとも,「大内家壁書」に用いた準拠という言葉は,先例に準じてこれに拠るという意味であり,国際私法でいう準拠法というのは,これを標準とし,これに依って,渉外事件を裁判すべき法であるという意味で,少しくその用例が変わっている。

♪Mr.Children「CENTER OF UNIVERSE」(アルバムQ収録)

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