法窓夜話56-60

穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,56話~60話を取上げます。

法窓夜話

 法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,51話~55話を取上げます。

 法窓夜話1話~5話:法窓夜話1~5  法窓夜話6話~10話:法窓夜話6~10

 法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15 法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20

 法窓夜話21話~25話:法窓夜話21~25 法窓夜話26話~30話:法窓夜話26~30

 法窓夜話31話~35話:法窓夜話31~35 法窓夜話35話~40話:法窓夜話35~40

 法窓夜話41話・42話:法窓夜話41・42 法窓夜話43話~45話:法窓夜話43-45

 法窓夜話46話~50話:法窓夜話46-50 法窓夜話51話~55話:法窓夜話51-55

56 経済学

 経済学は,慶応3年4月に,神田孝平が訳した「経済小学」という本がある。これは,イギリスのイリスの「ポリチカル・エコノミー」をオランダ語から日本語に訳したものである。明治3年2月に定められた大学規則,同年10月の大学南校規則には,「利用厚生学」という名称が用いられている。

 明治初め,ウェーランドの「ポリチカル・エコノミー」(Wayland’s Political Economy)が一般に普及し,その冒頭に、“Political Economy is the Science of Wealth.”という定義が掲げてあったので,一時,「富学」という語を用いた人もいた。しかし,これでは,金儲けの学問に聞こえるという弊害があり,広く普及はせず,異論はありながらも,「経済学」と言っていた。

 「経済」という語は,経国済民が由来で,太宰春台の「経済録」などがその用法に従ったのもであり,明治14年の東京大学の規則では「理財学」と改められた。ただ,世間では経済学という語は,神田氏以来,広く普及していて,既に慣用語となっていたし,原語の「ポリチカル・エコノミー」も,本来充分にその意義を表している訳ではないから,やはり「経済学」という名称が良いという議論が金井・和田垣両教授などから出た。そこで明治26年9月の帝国大学法科大学の学科改正の時から,再び経済学という名称になった。

57 統計学

 スタチスチックスの日本語訳が「統計学」と定まるまでには多少の沿革がある。慶応3年4月に出版された神田孝平訳「経済小学」の序には,スタチスチックスを「会計学」と訳してあった。明治3年2月の大学規則には,「国勢学」とある。これは,ヨーロッパで中世から18世紀初めまでは,スタチスチックスは,国家の状態を研究する学問となっていたので,その後の沿革を知らずに,200年前の用例のまま「国勢学」と訳したのだろう。明治3年10月の大学南校規則も「国務学」となっている。

 世良太一によれば,国勢学を一時,「知国学」と言ったこともあった。これは,おそらく,杉亨二の発案だったらしい。津田真道がオランダのシモン・ヒッセリングの著書を訳し,明治7年10月に太政官の政表課から出版した「表紀提綱一名政表学論」というのがある。「西周伝」によると,津田は学名としては「綜紀学」という語を用いたようである。世良太一によると,「政表」という語は,明治10年頃まで用いられた。

 このように,「スタチスチックス」に対する訳語がいろいろあったので,むしろ原語そのまま使った方が良くない?ということで,明治9年,杉亨二・世良太一らが創設した学会は,「スタチスチックス」社という名称を付け,「スタチスチックス」雑誌というのを発刊した。また,「スタラチスチックス」という漢字自体を作るという案も出ていた。

 では,「統計学」という名称の創始者は,誰なのだろうか?明治4年7月27日,大蔵省の中に始めて置かれた役所に統計司というのがある。これは,8月10日に,統計寮と改められたが,官署の名に「統計」と付けたのはこれが初めてである。「統計」の二文字は,おそらく,「英華字典」にスタチスチックに対して「統紀」という訳字を用いていたのにならって,作ったであろう。明治7年6月,箕作麟祥がフランスのモロー・ド・ジョンネの著書を翻訳して文部省から出版したものに,「統計学一名国勢略論」というタイトルを付けた。学名として「統計学」という各称を用いたのは,この本が最初だろう。この後も「国勢学」,「知国学」,「政表学」などの名称もあったが,後に,「統計学」に統一された。

58 自由

 安政4年,アメリカのブリッヂメンが上海で書いた「聯邦史略」という本に,初めて,freedom または liberty の訳語として自主,自立が用いられた。この本は,文久年間に続刻され長崎に伝来したが,これを見た人は少数であった。加藤弘之によると,自由という訳語は,幕府の外国方英語通辞頭をしていた森山多吉郎という人が発案したのが最初だという。しかし,文久2年初版慶応3年1月再版の「英和対訳辞書」(堀達三郎著)に,すでにに自由という訳語が載っている。福沢諭吉が慶応2年に出版した「西洋事情」にも「自由」という訳語を使っていて,その後,広く使われるようになった。

 中国では,すでに,「自主」「自専」「自立」などの訳語があり,日本でも,加藤は,慶応4年出版の「立憲政体略」には「自在」と訳し,「行事自在の権利」「思、言、書自在の権利」「信法自在の権利」などの語を用いた。津田真道の「泰西国法論」にも「自在」と訳し「行事自在の権」「思、言、書自在の権」などの語を用いられている。

 福沢諭吉は,不満足ながらすでに作られていた自由という訳語を「西洋事情」で用い,同書が広く読まれたので,自由という訳語が一般的となった。したがって,日本では,自由という言葉,自由という思想の開祖は,実は福沢諭吉であると言っても過言ではない。その後,明治5年,中村敬宇は,ミルのリバーチーを訳して「自由之理」と名付けた。この本も広く読まれた。

 これらの本が読まれた結果,欧米の自由主義という思想が,日本に輸入され,自由党が誕生し,板垣退助は,岐阜で刺客に刺された時も,「我に自由を与えよ,しからざれば我に死を与えよ」と言い,パトリック・ヘンリーのように,「板垣は死すとも自由は死せず」と叫ぶに至ったのである。

59 共和政治

 大槻文彦によれば,共和政治という言葉は,大槻磐渓が最初に作った訳語である。箕作阮甫の養子の省吾は,オランダ語に精通していたが,地理学を好み,諸国をめぐっていた。その後,オランダの地理書をもとに,地理学の本を書き,「坤輿図識」(こんよずしき)として出版した。

 この本の執筆中,オランダ語のレプュブリーク(Republiek)という言葉に出会う。意味を辞書で調べると,君主のない政体をレプュブリークというとあった。しかし,国に君主がない政治というのが,当時の日本人には,理解できないことであり,どのような訳語を用いればいいか悩み,大槻磐渓に適当な訳語について尋ねた。

 磐渓は,国として君主のないのは変だが,中国に例がないわけではないと言う。周の時代に,王が国民の反感を買い,逃げ出した際に,周・召の二宰相が14年間,国王なしで政治を行った。十八史略の記載から,国王のない政体は,共和政治というのがいいだろうと言った。省吾は,言われたとおり,レピュブリークに共和政治という訳語を用い,これが,今日まで使われている。

60 「人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし」

 明治5年に,マリア・ルス号事件が起きた。明治5年7月,ペルー人のペロレーが,マカオで清の国民230人を奴隷として買い,自分の船船マリア・ルス号で本国に連れ帰る途中,横浜に寄港した。横浜で一人の中国人が海に飛び込み脱出しようとしたところ,停泊中のイギリス軍艦に救出された。イギリス公使は,その処分を日本に要求した。そこで,日本政府は,マリア・ルス号を抑留し,取り調べの上,中国人を解放し,本国へ送還した。

 船主ペロレーは,雲行きが怪しくなるのを感じ,日本を脱出し本国へ帰り,ペルー政府に要請し,ペルー政府から日本政府に対し抗議をさせ,損害賠償を請求した。交渉は難航し,ロシア皇帝の仲裁により,日本政府の勝ちということで落ち着いた。

 この仲裁裁判で,ペルー政府は,「人身売買は日本政府の公認するところである。日本政府は国民に対して芸娼妓などの人身売買を許して置きながら,他国民に対して禁止するのは,理由がない」と争った。当時の司法卿江藤新平の伝記「江藤南白」の著者は,このように述べている。日本は,ペロレーの非行をたしなめたが,同時に,日本政府は,今なお,そのような非行が広く行われている未開の国だということを正式に世界に暴露されてしまった。条約改正の大事業を控え,将来は文明国に並ぼうとする目的を持つ日本政府にとって,大打撃である。

 司法卿江藤新平は,ペルー政府の抗議に刺激され,熱心に人身売買の禁止を主張した。マリア・ルス号事件の対応に当たった神奈川県令大江卓も江藤と同様の建白を行った。政府は,明治5年10月2日,人身売買禁止令を発布した。この発布は,マリア・ルス号事件のわずか3か月後であった。法令の第1項に「古来制禁ノ処」と書かれているのは,マリア・ルス号事件の抗議に対して,特に明言したのかどうかわからないが,ちょっと意味ありげに聞こえる。

 この法令施行に関して,江藤司法卿は10月9日に,「娼妓芸妓は人身の権利を失ふ者にて牛馬に異ならす。人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし。故に従来同上の娼妓芸妓へ借す所の金銀並に売掛滞金等は一切債るへからさる事」という通達を出した。要は,娼妓芸妓は牛や馬と一緒で,牛や馬に借金の返済求めないでしょ?ということ。

 ちなみに,このエピソード,るろ剣こと,「るろうに剣心」にちょっとだけ出てきます。

♪Mr.Children「I’ll be」(アルバム:DISCOVERY収録)

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