法窓夜話61-65

穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,61話~65話を取上げます。

法窓夜話

 法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,61話~65話を取上げます。

 法窓夜話1話~5話:法窓夜話1~5  法窓夜話6話~10話:法窓夜話6~10

 法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15 法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20

 法窓夜話21話~25話:法窓夜話21~25 法窓夜話26話~30話:法窓夜話26~30

 法窓夜話31話~35話:法窓夜話31~35 法窓夜話35話~40話:法窓夜話35~40

 法窓夜話41話・42話:法窓夜話41・42 法窓夜話43話~45話:法窓夜話43-45

 法窓夜話46話~50話:法窓夜話46-50 法窓夜話51話~55話:法窓夜話51-55

 法窓夜話56話~60話:法窓夜話56-60

61 フランス民法をもって日本民法となさんとす

 明治維新後,民法の編纂は,明治3年に,制度局が太政官に設置されたことにより始まる。当時,江藤新平は,制度局の民法編纂会の会長だった。江藤は,日本とヨーロッパはその風俗習慣が異なっているが,民法はなくてはならない。フランス民法に基づいて,日本の民法を制定すべきとの意見を持っていた。

 初め,制度局の民法編纂会が開かれた時、箕作麟祥にフランス民法を翻訳させ,直ちに,片っ端から会議にかけたようだ。江藤氏が司法卿になった後,法典編纂局を作り,箕作博士に命じてフランスの商法・訴訟法・治罪法などを翻訳させた。その際,「誤訳してもいいから,とにかく速く訳せ」と催促していた。江藤は,その翻訳を基礎に五法を作ろうと,まず,日本の民法を制定しようと,「身分証書」の部を印刷させた。

 磯部四郎によると,江藤司法卿は,日本と西洋で慣習も違うが,日本に民法がある方がよいか無い方がよいかといえば,ある方がよいではないかということで,「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい。そして直ちにこれを頒布しよう」という考えだったとのことである。

 今にして思えば,江藤の計画は,突飛なもので,津田真道は,「秀吉の城普請のように,一夜にして日本の五法を作り上げるのは無理な話しで,到底できるわけがない」言い,江藤からやれと言われたが,その命令を断った。津田の見識は,見事で,洲股の城普請は土木工事なので,一夜でできたが,国民性の発現である法律を一夜にして変えることはできない。

 江藤のような急進的な政治家が,強引に進め,鋭意,外国の法律の調査を進めたからこそ,後に,法制の改善を着実に進めることができたのである。日本のように,数千年孤立していた国民が,突然,海外の文化に触れた場合,様々な突飛な試験を行い,失敗を繰り返して,初めて進歩することができる。民法編纂についても,江藤の模写民法から,大木伯らの模倣民法となり,ついに,現在の参酌民法に至ったのである。

62 民権の意義を解せず

 明治3年に太政官に制度局を置き,同局に民法編纂会を開いた時,江藤新平はその会長となった。江藤は,はフランス民法を基礎として日本民法を作ろう,箕作麟祥にフランス民法を翻訳させて,これを会議に付した。

 その際,箕作はドロアー・シヴィールという語を「民権」と訳したが,日本では古来から,人民に権利があるなどということは,夢にも見ることがなかったので,会員らはその新思想をなかなか理解することができなかった。そして,「民に権があるとは何の事だ」という議論が直ちに起った。箕作博士は弁明したが,議論はますますヒートアップし,収まることがなかった。そこで,江藤は,「生かさず殺さず,この言葉はしばらく置いておけ。後で,必ず活用する時が来る。」と言って,かろうじて,会議を通ることができた。

 おそらく,江藤は,当時すでに,後の民権論勃興を予想していたのだと思われる。江藤は自分が救った「民権」を後日,利用することなく,征韓論で失脚し,明治の明治の商鞅となったのは,実に惜しいことである。

63 舶来学説

 「法学協会雑誌」が初めて発行されたのは,明治17年3月のことだが,穂積陳重は,第1号から「法律五大族の説」と題する論文を掲載した。この論文は穂積が研究した結果を出したものだが,すぐに,「あれは西洋の何という学者の説ですか?」との質問をあちこちから受けた。「あれは全く自分の説である」と言っても,なかなか信じてくれない。中には,その原書を見つけたという人までいた。また,この分類をフランスの学者の説として引用する者もあった。さらに,その当時,穂積の説を引いて「西洋のすぐれた哲学者が言うには」などと言った者さえもいたので,穂積は,それに乗っかり,「今後,西洋のすぐれた哲学者という栄光は固辞する」などと書いた事もあった。

 このことは,現在から見ると,おかしなことではあるが,当時の日本の学問の世界においては,やむを得ないことであった。日本人は,明治維新後,初めて,翻訳書により,西洋の法律を知った。法学教育は,明治5年に司法省の明法寮で初めて行われ,明治7年に東京開成学校に法律科が設置された。その後,10年しか経っていない時の話しで,当時の東京大学では,穂積はまだ,英語で法律の講義をしていて,フランス法学の輪入の初期であったので,穂積の言うことは,ことごとく西洋の学者の説の紹介であると思うのは,無理のないことだった。

 その後,穂積は,比較法学研究法の便宜のために,法族説を完成しようと思い,「法系」という言葉を作った。同時に,法律継受の系統を示すために「母法」および「子法」の言葉も作って,法学通論および法理学の講義の際に用いた。ドイツには穂積より先に「母法」「子法」に相当する言葉を用いた者がいるらしいが,通用の学語としては行われてなかった。

 また,穂積が「隠居論」の始めに隠居の起原を論じた際も,その説もその根本思想をドイツのヤコブ・グリムの説に得たものだという人がいた。

 これらの事は,日本の学問は,古来,外国から輪入されたもので,漢学時代においては中国の学者は特別にえらいものと思い,中国の故事を知り,中国の学説を知るのが即ち学問であると考え,西洋の学問が入ってからまだ日も浅く,新学問において,西洋は先進者であるから,すべて西洋の説により,その説に倣うという有様であった結果に過ぎないのである。新学問の初期,明治20年代くらいまでは,西洋人の説というと,むやみにそれをありがたかった。伊藤博文が憲法調査のために,渡欧し,スタインに意見を求めた以後,数年間は,スタイン説が流行し,スタイン説と言えば,当時の老大官たちは感服したのだった。当時の川柳に,「スタイン(石)で固い頭を敲き破り」というのがあった。舶来品といえば,信用がある時代は,学問界においては残念ながらまだ脱していない。

 穂積の友人に時計製作の大工場を持っている人がいる。その時計はめちゃくちゃ精巧で海外製にも劣っていないが,製品に社名が書いてない。穂積が理由を尋ねると,「社名を出したいのはやまやまだが,日本製は劣っているという世間の誤解がまだある。社名を入れれば,粗悪品として売上げが落ちる。優良品と認められても,偽物ではないかと疑われるおそれがある。世間に真の価値が認められるまでは,社名を入ずに売る。」と答えが返ってきた。

 伊予の宇和島で,旧藩主伊達家の就封三百年記念として,藩祖を祀った鶴島神社の大祭が行われた。旧城の天主閣で,伊達家の重器展覧会が開かれた。陳列されたものの中に,旧幕時代に佐竹家より伊達家に嫁せられたその夫人の嫁入道具一切が陳列されていた。大小数百点の器物は,ことごとく皆精巧を極めたる同じ模様の金蒔絵で,美しく鮮やかなものだった。観覧人の一人が,それを見て,「これはまことに見事な物じゃ。こんな物はとても日本で出来るはずはない。舶来であろう。」と言った。

64 グローチゥス夫人マリア

 フーゴー・グローティウスは、国際法の元祖で,その著「平戦法規論」(De jure belli ac pacis)は国際法の源泉である。フーゴー・グローティウスは,オランダ人で,1583年に生まれた。幼少から神童と言われ,9歳でラテン語で詩を作り,11歳でレイデン大学に入学し,15歳で本を書いた。この年,オランダ公使と共に,フランスに行き,アンリ4世は,グローティウスを絶賛し,黄金の首飾りを授け,「ここにオランダの奇蹟あり」と言った。16歳で法学博士の学位を取得し,17歳で弁護士になり,その名声は国内に広まった。20歳の時,オランダ政府の国史編纂官に任命され,24歳で検事総長の高官に任命された。

 1608年,マリア・ファン・レイゲスベルグと結婚したことで,グローティウスは国際法の起源史に重大なる関係を有することになる。当時,オランダは,アルメニアン教徒とゴマリスト教徒とが紛争状態にあり,混乱を極めていた。グローティウスはアルメニアン派であったが,オランダ総督モーリス公はゴマリスト党に与し,武力で憲法を破棄し,グローティウスら反対派を捕らえて投獄した。グローティウスの財産は,ことごとく没収され,終身刑に処せられローフェスタイン城に幽閉された。幽閉中,政府は,1日,食料として24スー(約45銭6厘)が支給されただけだった。妻のマリアは,夫が自分の政敵で迫害者である政府から供給を受けるのを潔しとせず,自ら夫に差し入れることにした。

 グローティウスの幽閉は,当初,かなり厳重で,父親も面会が許されなかった。マリアが面会を懇願するようになると,看守は,マリアに向かって,「一度,牢屋の中に入ると,二度と外に出ることはできない。また,一度,監獄を出るときは,再び,監獄に戻ることはできない。お前は,夫と共に,一生,獄中で暮らすことになってもいいのか?」と聞いた。マリアは,少しも躊躇することなく,すぐにその条件を飲み,自ら進んで獄中に入った。グローティウスは36歳だったが,終身刑に少しも絶望することなく,その身は監獄にありながら,マリアの慰謝と励ましを受け,ひたすら思いを著述に込めていた。後に,看守の許可を得て,ゴルクムという友人たちに依頼して,週に一度ずつ書籍を棺に入れて交換出納し,また衣類などを洗濯のために送り出すことも許されるようになった。

 マリアが夫と共に,獄中生活を営むようになってから,1年半が経過した。その間,2人は,絶えず,脱走の機会をうかがっていた。2人が毎週送り出す棺は,看守には何の興味もない古本や,汚れた衣類ばかりだったので,歳月を経るに従い,これらの検査も緩くなっていった。ついに,棺の蓋を開けることなく,通過するようになった。

 マリアは機が熟したと思い,夫に脱獄計画を話した。その計画は,マリアがグローティウスを棺に隠して救い出すというものだった。さらに,マリアは,かつて雇っていた下僕たちと予め,計画について知らせ,城外で棺を受け取り,すぐに,ゴルクム町の友人の家に護送する事を依頼した。また,棺に小さな穴を空け,空気を確保し,グローティウスを棺に入れテストを行い,チャンスを待った。

 すると,看守の司令官が公務で出かけたことがわかった。天が与えたチャンスだと司令官の不在中に,マリアは行動に移した。まず,グローティウスが伝染病に罹ったと看守を遠ざけた。そして,司令官の妻を訪問し,夫が病気に罹り,読書ができなくなったので,書籍をゴルクム町へ送り返すこと許可を得た。そして,予定通り,夫を棺に入れ,看守2人に運び出させた。

 看守たちは,棺が普段より重いことを不審に思い,「この中に,アルメニアン教徒が這入っているのではないか。」と言った。マリアは,「さよう、アルメニアン教徒の書籍が入っています。」と微笑みながら答えた。看守らは蓋を開けることなく,棺を運び出した。下僕たちは,マリアの計画通りに城外で棺を受け取ると,船に載せ,運河を渡り,ゴルクム町に運送した。

 自由を得たグローティウスは,レンガ職人に扮装し逃走し,アントウェルプ府に行き,国境を越えようとする時に書をオランダ議会に送り,えん罪を訴え脱獄の理由を弁明し,かつ,自分は祖国より迫害されたけれども,祖国を愛する気持ちは,ちっとも変っていないことを伝えた。グローティウスは国境を超えて,パリに入った。

 マリアは,初めの内は,夫は伝染病に罹っていると言って,看守を遠ざけていたが,夫が国境を超えたであろう頃を見計らい,看守に夫を脱獄させたと自首した。看守は,マリアを人質にし,グローティウスの代わりに,牢に繋いでいれば,グローティウスが情にほだされて,帰ってくるだろうと思っていた。数か月後,オランダ議会は,マリアの貞操を義として,放免した。マリアは放免されると,すぐにパリに行き,夫を慰めて,その著書の完成を奨励した。

 ルイ13世は,グローティウスを不憫に思い,年金3000フランを支給することを決めたが,国庫はその支払をしてくれなかった。グローティウス夫婦は,故郷の親戚が送ってくれたわずか金員,衣服,食品などで,ようやくに日々の生活を支え,その生活は困窮を極めたが,グローティウス夫婦は,その志を屈することなく,互に励み励まされてその著述を継続したのであった。

 その後,グローティウスの才能は世の認めるところとなり,宰相ダリヂールの奏請で年金の一部が支給された。また,ジャック・ド・メームはその居城の一部を貸して住まわせ,ド・ツーは、その書庫の使用を許してくれた。ついに,1625年に,20年間あたためていた「平戦法規論」(De Jure Belli ac Pacis)の大著述は公刊された。

65 ジョン・オースチン夫人サラー

 ジョン・オースティンは,分析法理学の始祖である。その名著「法理学講義」(Lectures on Jurisprudence)は,オースティンの死後に未亡人サラー(Sarah)が多くの苦労の末に,出版したものである。

 サラーは、1793年,イギリス・ノリッチ(Norwich)州の名家ティロー家に生れた。サラーは,古文学および近世語に精通していた。1820年,当時,弁護士だったオースティンと結婚した。結婚後,家事のかたわら,古典やドイツ・フランス語で書かかれた有名な歴史詩文などを翻訳することに従事していた。そのため,サラーによる名高き著書もいくつもあった。もっとも,サラーの最大の功績は,オースティンの遺稿を整理して,出版したことである。

 1867年8月12日のタイムス新聞は,紙面でサラーの死亡を伝えるとともに,その伝記を掲載した。そして,「サラーが高齢で病気と闘いながら,法理学上の大産物を公刊したことは,我々が,サラーに対して,心の底から感謝しなければならない。この行為は,サラーが,夫のために最も高貴な記念碑を建立したものと言わねばならない。」と称えた。

 サラーは,オースティンと結婚後にロンドンに移り,クイーンズスクエアに住んでいた。偶然にも,その家は,あのベンサム,ジェームズ・ミルと軒を連ねていた。そのため,オースティン夫婦は,ベンサムやジェームズ・ミル・ジョン・スチュアート・ミル親子と交流があった。その他当時,イギリスの大学者といわれる者で,サラーの学識を慕い,家を訪ずれ,客とならなかった人は稀であった。タイム紙によると,サラーは,有名な文学者であったが,自ら進んで名を求めるような事は一切せず,オースティンの家は富裕でなかったかので,その客室の什器は,質素で,室内に装飾もなかった。しかしながら,サラーの客間には,ロンドンのどんな大富豪でも,集めることはできない大学者が常に会合していた。

 1826年,ロンドン大学が創立しされ,初めて法理学の講義が設けられることになった時,オースティンはその講義を担当した。オースティンは,極めて慎重な研究者だったので,講義を始める前に,予めドイツの諸大学の法学教授法を調査しようと思い立ち,サラーと共にドイツへ行った。ドイツにおいて,サラーの名は,ランケの「ローマ法王伝」や,ファルクの「ゲーテ人物論」などの種々のドイツ書の翻訳によって,すでに世界に知られていた。このことは,オースティンが自分の調査をするのに,非常に役立った。ボン市では,史家ニーブル(Niebuhr),文学者シュレーゲル(Schlegel),哲学史家ブランヂス(Brandis),愛国詩人アルント(Arndt),考古学者ウェルケル(Welcker),ローマ法学者マッケルデイ(Mackeldey),国際法学者ヘフテル等の当時,ドイツにおける碩学と親交を結ぶことができた。

 ロンドンに帰り,オースティンは講義を始めた。最初のうちは,教室が満員だったが,オースティンの講義を理解することができなかったので,受講者は徐々に減り,最後には,前列の10人ほどを残すのみとなった。最後までオースティンの講義を聴講した者は,後に,世界に名を轟かす学者となった。いわゆる偉人にあらずんば偉人を知ること能わずで,ジョン・スチュアート・ミルもその一人である。

 オースティンの死後,サラーは,夫も遺稿を出版すべきかどうか葛藤があった。オースティンの友人や門弟の勧めもあり,出版することを決めた。出版を決めた後も,サラーは,自分がその遺稿を整理編纂することは望まなかった。ある時,親友の一人が,「これは至難の大事業です。けれども、もしあなたがこれをなさいませんければ,永劫出来ることはありません」と言った。その一言がきっかけで,サラーは,自ら整理編纂することを決意した。

 サラーは,ついに,この大事業に当る決心をし,このように思った。この事業は非常な困難な事である。しかし40年間最も親愛なる生涯を共にし,常に夫の心より光明と真理とを得たこと,あたかも活ける泉をくむが如くあった自分だから,その心を充たしていた思想をたどる事はできないはずはない。情愛の心をもって考えれば,不明の文字もその意味がわからないことはあるまい。情愛の眼をもってこれを見れば,他人の読めない文字も読めないはずはあるまい。思えば長いこの年月の間,足りない我身の心を尽し,助力も受けて下さったのみならず,法学上の問題などについては,常に話もし文章を読み聞かせもして下さったのである。またこれらの問題は,すべて常に,夫の心を充たしていた事柄なので,聴く自分に取っても真に無限の興味があったのである。このように,自ら心を励ましてその事に当るに至ったのであるとサラーは記している。

♪Mr.Children「未完」(アルバム:REFLECTION {Naked}収録)

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