法窓夜話66-70

穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,66話~70話を取上げます。

法窓夜話

 法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,66話~70話を取上げます。

 法窓夜話1話~5話:法窓夜話1~5  法窓夜話6話~10話:法窓夜話6~10

 法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15 法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20

 法窓夜話21話~25話:法窓夜話21~25 法窓夜話26話~30話:法窓夜話26~30

 法窓夜話31話~35話:法窓夜話31~35 法窓夜話35話~40話:法窓夜話35~40

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66 歴史法学比較法学の始祖ライブニッツ

 ライプニッツは,広く物事を知っていて,よく覚えている。ギボンは,ライプニッツを「世界平定の壮大な計画の偉業を達成せずに亡くなった古代の優れた君主のようだ」と評した。また,ゲーテは,ファウストの中で,ライプニッツを哲学も法学も医学も神学も熱心に勉強して,底の底まで研究したと記した。

 ライプニッツは,当時の科目は,すべて極めていて,イギリスのウィリアム3世は,ライプニッツを「歩行辞書」と呼んだ。ドイツ,イギリス,ロシアの王室は,ライプニッツに終身年金を与え,大学者を優遇した。

 ライプニッツは20歳の時,ライプツィヒ大学に,法学博士の学位試験を受けたいと請求した。しかし,大学は,ライプニッツが未成年だったことから,拒絶した。すると,ライプニッツは,「年齢と学識に何の関係があるのか?」と言って,去った。その後,ライプニッツは,アルドルフ大学に法「学教習新論」という学位請求論文を提出した。この論文は,小冊子に過ぎないが,中身は,法学上の一新時期を作り出すべきものだった。18世紀以降の法学革命を100年以上前に予想していたのだ。ライプニッツが言うには,「各国の法律には,内史と外史の区別がある。歴史法学は当然,法律学の特別の一科目であるべきである。」という。また,「上帝の命で,古今各国の法律を収集し,法規を比較分類して,法律全図を描こうとしている」という。

 歴史法学の始祖といえばサヴィニー,比較法学の始祖といえばモンテスキューと誰もが言うが,この二学派の開祖は,ライプニッツといっていいのではないか。

67 ベンサムの崇拝

 ジェレミ・ベンサムが15歳の少年だった時,公判を傍聴し,当時の名裁判官マンスフィールド伯を見た。その威厳に満ちた堂々とした立ち振る舞いは,ベンサムの心をとらえ,ベンサムは,マンスフィールドの熱心なファンになった。そして,ベンサムは,友人のマーテンからマンスフィールドの肖像画をもらい,壁の高いところに掲げ,何かと仰ぎ見ていた。しかし,ベンサムは,これだけでは満足できず,マンスフィールドの散歩コースであるケーン・ウードを徘徊し,マンスフィールドに出くわすのを楽しみにしていた。

 ベンサムのマンスフィールドに対する崇拝の念は,ますます高まり,ついに,マンスフィールドを称える誌を作った。最初の句は,一気呵成に口をついて出てきた。

 Hail, noble Mansfield, chief among the just,The bad man’s terror, and the good man’s trust.

 (悪人には恐怖を,善人には信頼を与える正義の味方,高貴なマンスフィールド,万歳的な感じ)

 しかし,その後が続かない。どうしても出てこない。最初の句があまりに荘厳だったので,どんな句をつなげても,尻すぼみになってします。ベンサムはとうとう筆を投げてしまった。

68 筆記せざる聴講生

 イギリスで,空前の大法律家と称せられたブラックストーンが,オックスフォード大学で講演した。教室は,1000人もの学生であふれかえり,学生たちは,ブラックストーンの講演を一言一句,聞き逃さないとメモを取っていた。

 そんな聴講生の中に,一人の若い学生がいた。その学生は,眠っているように,腕を組み,目をつぶり,下を向き,講義の間,まったくメモを取らなかった。講義後,友人が「メモ取ってなかったけど?」と尋ねると,その学生は,「先生の講義が正しいかどうか考えていたら,メモを取るひまはなかった。」と答えた。

 後に,ブラックストーンの陳腐な学説を打破し,イギリスの法理学を一新したベンサムこそが,この聴講生だった。

69 何人にも知られざる或人

 ベンサムが「フラグメント・オン・ガヴァーンメント」の初版を出版した際,匿名で出版した。これまで,大家とされてきたブラックストーンの学説を批判し,永久不変の真理と信じられていた自然法主義および天賦人権説に対して,反対の第一矢を放った目新しい実利主義と卓越した思想にふさわしいなだらかでいて力強く美しい文章は,世間の注目を集め,まだ読んでない人は恥とされ,一度読んだ人は,称賛した。

 この本の名声とともに,誰が書いたのか?という疑問の声があがった。人々は,当時の有名人をことごとく,この本の著者なのではないかと噂したので,バーク(Edmond Burke),ダンニング(Dunning),マンスフィールド卿(Lord mansfield),カムデン卿(Lord Camden)などが,代わる代わる,その空虚な名誉に預かった。

 この成功を最も喜んだのは,ベンサムの父だった。父親は,自分の子どもにあるべき栄誉が,あらぬ方向に行きそうだという状況をもどかしく思い,ベンサムとの約束を破り,発行元に行き,第2版からは,「ジェレミ・ベンサム」とクレジットするよう頼んだ。しかし,発行元はなかなか応じない。というのも,この本が売れているのは,誰が著者かわからないからである。

 しかし,このことが知れ渡ると,どんな大家の学説かと思いきや,青二才の学説なのかと人々は失望し,第2版の出版は中止された。ベンサムは後に,「父が約束を破ったので,この本の著者は,誰もしらないある人だと知れ渡ると,発行元の門前にとり網を張れと言っている。若いことが何の罪なのか?年取っているとそんなに偉いのか?という感慨を禁じ得ないのだろう。世間は本を買わずに,名を買う人ばかりだ。」と言った。

70 ベンサムの功績

 ベンサムの哲学の主眼は,有名な「最大数の最大幸福」という実利主義にあった。ベンサム自身が実利主義に忠実であった。

 ベンサムが始めて実利主義を唱えて法律改善を説いた時,古い慣習に執着するイギリス人は,その大胆奇抜な説に驚愕するしかなかった。過激論,役に立たない学者の空論などと言われもしたが,ベンサムは決して屈しなかった。時には国王の逆鱗に触れるほどの危険もおかし,死に至るまで実利主義のためにいばらの道を歩んだ。

 学者の学説は,社会の進歩に先立つものである。ベンサムの法律制度改正案は,ざっと数百あったが,ベンサムが85年の生涯を終えるまでに実現されたのは,少数だった。ベンサムの薫陶を受けた政治家にピット,マッキントッシ,ブローム,ロミリー等がいた。彼らは,ベンサムの意思を継ぎ,その考えを実現する人を欠かなかったので,その死後,数十年で実現した改正案は,無数にある。

 法制上は,刑法の改正,獄制の改良,流刑の廃止,訴訟税の廃止,負債者禁錮の廃止,救貧院の設置,郵便税の減少,郵便為替の設定,地方裁判所の設立,議員選挙法の改正,公訴官の設置,出産結婚および死亡登記法,海員登記法,海上法の制定,利息制限法の廃止,証拠法の大改良などがある。法理上は,国際法(International Law)という名称の創始,主法・助法(Substantive and Adjective Law)の区別、動権事実(Dispositive Facts)の類別など数えきれないほどある。

 偉人は死すとも死せず。穂積はベンサムを法律界の大偉人と考えている。ミルは,ベンサムを「混沌な法学を引き受け,整然る法学を残した」と称した。

♪Mr.children「The song of praise」(アルバム:SOUNDTRACKS収録)

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