法窓夜話76-80

穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,76話~80話を取上げます。

法窓夜話

法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,76話~80話を取上げます。

 法窓夜話1話~5話:法窓夜話1~5  法窓夜話6話~10話:法窓夜話6~10

 法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15 法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20

 法窓夜話21話~25話:法窓夜話21~25 法窓夜話26話~30話:法窓夜話26~30

 法窓夜話31話~35話:法窓夜話31~35 法窓夜話35話~40話:法窓夜話35~40

 法窓夜話41話・42話:法窓夜話41・42 法窓夜話43話~45話:法窓夜話43-45

 法窓夜話46話~50話:法窓夜話46-50 法窓夜話51話~55話:法窓夜話51-55

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 法窓夜話66話~70話:法窓夜話66-70 法窓夜話71話~75話:法窓夜話71-75

76 法廷の掏摸

 サー・トマス・ムーアが,ロンドン府裁判所判事長時代,部下の判事に,めちゃくちゃ頑固な人がいた。その判事は,窃盗やスリの裁判では,加害者を問い詰めず,逆に被害者を叱りつけ,「この災害は,自らが招いたものなので,今さら誰かを恨むべきではない」などと罵っていた。ムーアは,苦々しく思い,いつか苦言を呈してやろうと思っていた。

 ある時,スリの名人が逮捕された。ムーアは,裁判の前日,スリの名人に会い,ある秘策を授けた。裁判の当日,例の判事は,いつものように,まず,被害者を叱り飛ばしてから,被告人の尋問を行った。被告人は,「こうなったら,すべて包み隠さず話しましょう。しかしながら,一つだけ公言し難い秘密があります。これだけは,判事にだけ聞こえるように申し述べさせていただきたい」としきりに,願い出た。そこで,判事は,被告人を自分のそばに招き,聞き取ることにした。

 その日の裁判が終わり,判事たちは,休憩室に戻り,雑談に興じていた。ムーアが突然,例の判事に向かって,「慈善活動のための募金を募集している話しがあって,自分も募金をした。君も募金する気があるなら,取り次ぐけど」と言い出した。判事は,承諾して,ポケットに手を入れると,顔を真っ赤にして,あちこちをかき探している。ムーアは,「君の懐中時計は,先ほどの法廷で耳打ちの際に,被告人の手に渡りました。これは,君の不注意が招いたもので,今さら,咎めないでしょう。」と言った。その場の判事たちは,驚きと同時に爆笑した。例の判事は,茫然自失,一言も発することはなかった。その後,例の判事は,被害者を叱りつけることはなかった。

77 盗人の慧眼

 ある時,法官サー・ジョン・シルベスターが,窃盗事件の審問をした。審問中,法官の手はしばしば動いて,ポケットを探っている。探している物が見つからないようだ。この裁判は,証拠不十分で放免という宣告により,被告人は,直ちに自由の身になった。

 その日の勤務を終え,シルベスターが家に帰ると,家人が出迎えて,こう言った。「今日は,時計をお忘れになったので,ご不便だろううとお噂をしておりましたところ,裁判所から使の者を取りに来られましたので,その者に渡しました。」

78 石出帯刀の縦囚

 明暦の大火によって,江戸が大惨事に見舞われた。この火事は,1月18日から20日まで燃え続け,10万人以上の死者を出した。引き取り手のない遺体は,武蔵下総の牛島に埋葬された。そして,増上寺にこの地に寺院を建立され,諸宗山無縁寺回向院が造られた。

 明暦の大火の際に,石出帯刀(いしでたてわき)が囚人を解放した事実が「むさしあぶみ」に記されている。

 石出は,囚人たちに,このままでは焼け死んでしまうから,いったん逃げろ。火事がおさまったら,下谷の「れんけいじ」へ一人残らず来い。この義理を果たした者は,我が身に代えても,命を助けてやる。もし,約束を破り,そのまま逃げるやつは,雲の果てまで追いかけ,一門すべて成敗する。囚人たちは,皆,手を合わせ,涙を流し,思い思いに逃げるも,火事がおさまった後,一人残らず,下谷に集まった。石出はめちゃくちゃ喜び,重罪人でも義を果たすものを殺すことはできないと,家老に掛け合って,赦しを得た。

 唐の太宗が貞観6年,自ら罪人を尋問し,死刑に当る大辟囚を哀れに思い,翌年の秋刑を行う時,自ら戻ってきて,死刑に処されることを約束させた上で,390人の囚人を家に帰らせた。ところが,約束の日に一人残らず帰ってきたので,太宗は彼らが義を守ることに感嘆し,ことごとく放免した。という資治通鑑の話しと石出の話しは酷似しているが,両者には違いがある。

 石出の場合,非常時に人情に基づいて行った必要なる処置で,釈放しても帰ってくる理由があった。太宗が大辟囚を家に帰らせたのは,平時でしかも彼らが帰って来る理由はなかったのに,必要のない奇行を敢行した。390人の大辟囚が,全員,死刑を受けるために戻って来たのが史実だとすると,内密に赦免を約束していたのではと推測することもできる。英雄名を求め世を欺くの一例を与えたに過ぎないのである。

 監獄法第22条にも,天災地変に際して,他に護送避難の遑がない時は,一時囚人を解放し,24時間内に改めて監獄または警察署に出頭させるという規則があり,石出流の応急処分が今日においても是認されている。

79 大儒の擬律

 江戸時代,武州川越領内駒林村の百姓甚五兵衛とその息子四郎兵衛が,甚五兵衛の娘「むす」の夫である伊兵衛が,江戸から村へ帰ってきた際に,絞殺して川へ投げ捨てた事件があった。

 むすは,誰が犯人か知らずに告訴したが,取調の結果,自分の実父および実兄が下手人であった事が判明した。川越の領主秋元但馬守は、「闘訟律」には,「父母を告発したら絞首」とあるが,むすに適用してもいいのか?決定しかねるとして,幕府に伺いをたてた。

 幕府は,当時の儒官林大学頭信篤および新井白石に命じて法の適用を調査させることになった。林大学頭は,「闘訟律」の規定などから,父の悪事を訴えた者は死罪に処すべきと主張した。新井白石は,このような場合,父の悪行を知ってこれを訴えてもなお罪がないと主張し,長文の意見書を幕府に提出した。新井白石の意見が採用され,秋元但馬守は,甚五兵衛および四郎兵衛を下手人として死刑に処し,訴人「むす」は尼になるように宣告した。

80 罪の語義

 「ツミ」という言葉の意義は,本居宣長のの「大祓詞後釈」を始め,古来から様々な解釈が試みられている。伊勢貞丈の「安斎随筆」には,「つめる」に「膚を摘み痛むるより起る詞なるべし」という意見がある。

 これは,随分と変わった解釈である。継母が子どもをいじめるのは,罪深いことではあるが…

♪Mr.Children「箒星」(アルバム:HOME収録)

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