法窓夜話91-95

穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,91話~95話を取上げます。

法窓夜話

 法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,91話~95話を取上げます。

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91 断食居催促

 アイルランドの古法センカス・モア(Senchus Mor)は,債務不履行の場合,債権者は,まず,①催告(Notice)を行い,次に,②財産の差押え(Distress)を行うことが許されていた。しかし,債務者が位の高い人又は目上の人の場合,直ちに,自宅に踏み込み,差押えを行うのは,穏やかではないし,実行も難しいだろう。このような場合,センカス・モアは断食居催促(Fasting upon him)という奇法を設けている。債権者は,債務者の自宅前居座って,催促し,債務が弁済されるか又は担保が提供されるまでは,ひとかけらのパンも一杯の水をも口にせず,餓死を待つのである。

 まぁ,昨今の債務者は,この程度のことでは驚かない連中が多い。死にたければ勝手に死ねという感じで,平然としているであろう。また,催促する方も,腹が減ったら,やがて立ち去るのであろうが,古代の人間は中々真面目である。センカス・モアにも,断食居催促に対して担保を提供しない者は,神人共に認めないと記し,僧侶(Druid)も,債権者を餓死させた者は,死後,天罰を下ると説いて人々も一般に,そのように信じていたのである。したがって,この催促法は,かなり効力があったものと思われる。

 インドの古法(Vyavahara Mayuka)にも,戸口の見張(Watching at the door)という催促法が存在した。マヌ(Manu)その他の法典にはダールナ(Sitting dharna)という弁済督促法があった。これも同じく断食居催促の法であって,一般人が行っても効力があるが,特にバラモン僧(Brahmin)がこれを行うと,めちゃくちゃ効果的だった。バラモン僧は,インド民族の最上階級であって,その身体は神聖不可侵である。間接的にもでもバラモン僧の死に原因を与えた者は,贖罪が許されない大罪人であって,未来永劫,逆境から抜け出せないと信じられていた。したがって,死をもって債務者を威嚇するには,この上もない適任者である。その上,都合の好いことに,彼らは難行苦行を積んでいるので,催促の武器である断食はお手の物である。彼らは,毒薬又は短刀などの自殺道具を携帯して,債務者の自宅前に静座し,何日間も平気で断食する。たとえ,家人が追い払おうとし,又は,自宅から外出しようとすれば,直ちに毒薬又は短刀を使って自殺すると脅かす。自殺されてはたまらないので,家人は食物を買いに出ることも出来ず,完全に閉じ込められてしまうのである。dharna とは拘束(arrest)という意味で,Sitting dharna とは,居催促によって,拘束状態にすることを意味する。債務者と僧侶との間で,断食の根比べが始まる。しかし,天下のバラモン僧に敵う者はいない。どんなに頑強な債務者も,ついに,閉口して,弁済又は担保を提供して,拘束を解いてもらうしかないのである。このようなバラモン僧の居催促は,偉大の効力があるので,後には,一般人が僧侶に依頼して催促をしてもらうことが始まり,ついに,バラモン僧は,執達吏(現在の執行官)のような仕事を生業とするに至った。インドがイギリス領となり,裁判所が設置され,当局は,この蛮習の撲滅に苦心した。インド刑法において明文で禁止したが,長年の因襲は恐しいもので,19世紀の半ば過ぎまでも,根絶するには至らなかったということである。

 ペルシアでは,現在でも断食居催促の法が行われているということである。しかもその方法が,かなり面白い。債権者は,先ず債務者の門前から数尺の地面に,麦を蒔き,その中央にドッカと座り込む。つまり,この麦が成熟して食べれるようになるまでは,断食して居催促するぞという一大決心を示す意味である。
 以上の例は,いずれも法律の保護が不十分な時代には,自分の権利を主張するため,非常手段にまで出なければならないかということを示しているものである。我々は,平和穏便に,自分の権利を主張できる優れた天子のいる時代の民であることを感謝せざるを得ないではないか。

92 地位と収入

 イギリスのサグデンは,もともと低い身分の者だったが,後に,大法官になり,ロード・セント・レオナルド(Lord St. Leonald)と称した人物である。サグデンは学生時代に「売主買主の法律」(Laws of Vendors and Purchasers)という本を書き,名声を得,大法官となった後も,数々の名判例を残し,イギリス法律家が尊崇する大法律家の一人である。

 サグデンが弁護士だった時は,毎年1万5000ポンド(当時の日本円で15万円)の収入があったが,その後,名声を得て,判事になると,その収入は,約3分の1に減った。

 地位と収入とが必ずしも伴わないことは,古今問わず同じことだが,アメリカの経済学者エリー(Richard T. Ely)は,「俸給の額は,勤労の価値によって決まらず,地位職掌に必要な費用によって決まる傾向がある。裁判官の収入が,その弁護士時代の収入の3分の1又は4分の1に過ぎないことがあるのは,この理由に基づくのである。」という。

93 盗賊ならざる宣誓

 アングロ・サクソン王エドワード(Edward the Confesser)の法律には,12歳になった時,十人組(Frankpledge)の面前で,「自分は盗賊ではない。また,盗賊の一味でもない」という宣誓をしなければならなかった。つまり,社会の秩序は,当初,このような人々の相互担保によって維持していて,後に,国家によって担保されるに至ったのである。

94 違約に対する刑事責任

 現在の法理では,違約はその性質上,民事責任が生じるもので,各国の法律も同じように規定している。しかし,有名なマコーレー卿(Macaulay)が立案したインド刑法は,旅客運送契約の違約者に対して,刑事責任を負わせている。これは,大いに理由のあることと思われる。

 インドで旅客運搬を業としているのは,土人のかごかきであるが,日本の雲助にも劣った裸一貫の人たちなので,民事責任を負わせようにも,賠償することなど到底できないのである。また,旅客の通行する地方には,森林や砂漠といった人もいない荒れ果てたところが多いので,そのような場所で,運送契約を破って,女性や子どもを置き去りにすると,生命身体に重大な危険を及ぼすので,民事責任では制裁が不十分である。インド刑法が刑事罰を科しているのは,事情に適した立法と言わざるを得ない。このように,性質上は民事責任のみが生じる行為でも,場合によっては,刑事責任を科さなくては,法律の目的を達成できないことがある。立法家は,当然,留意しなければならない。杓子定規や融通が利かないことは,手腕のある法律家ではない。

95 末期養子と由井正雪事件

 徳川幕府時代には「末期養子」というものがあった。これは,男子の無い者が,急病等で危篤に陥ったとき,又は重傷で死に瀕し,人事不省となったときなどに,親類縁者などが,本人の名をもって養子をすることがありる。また,時には,死後に喪を秘して,本人が生きていると装って養子をすることもある。これらの場合を通常「末期養子」といい,又時としては「養子」や「急養子」ともいった。

 末期養子によって,家督相続を許さない法律があると,急病・負傷・変災などのために戸主が突然,死亡して,一家断絶する場合が多くあるのはもちろんである。しかし,徳川幕府の初めには,大名の配置を整理して幕府の基礎を固くするために,大名取潰しの政策を行い,末期養子を厳禁し,諸侯が跡継ぎ無くし死んだときは,直ちにその領地を没収した。その結果,幕府開始より慶安年間に至るまで約50年の間に,跡継ぎがいないために断絶した1万石以上の大名の数が合計61家,その禄高517万石余に及んだ。

 大名取潰しの結果,浪人が増加した。浪人となった者は,世襲の俸禄によって生計を立てており,武器を手に戦うことはできるが,そろばんを手に自活することはできなかった。したがって,浪人の身となった結果,生活に窮し,暴行を働いて良民を苦しめたり,謀反を企てた者が出てくるのは自然なことであった。関ヶ原の合戦で,西軍の大名80人余りが領地を失い,その結果,浪人が世にあふれ,一時,大阪の陣で豊臣方の軍の士気が上がったのは,よく知られている。島原の乱にも小西の遺臣を始め九州の浪人が多くこれに加わり,幕府は大軍を動員することになった。由井正雪の陰謀事件の際にも,加担して大乱を起そうと企てた浪人の数は,2000人にも及んだということである。

 浪人は社会の危険分子である。大阪の陣,島原の乱,共に浪士の乱ともいうべきものであったので,幕府は浪人の取締を厳重にする必要を認め,特に,島原の乱の起った寛永14年から五人組制度を整備し,比隣検察の法を励行した。慶安4年に由井正雪の陰謀が露現した後,幕府は従来の大名取潰しの政策が予想外の結果を招き,かえって,危険分子を天下に放つものであるということに気づき,警察法をもって治めるよりは,その源を塞いで大名取潰しの政策を棄て,浪人発生の原因を断つ方がよいということを悟った。

 幕府が大名取潰しの原因として利用したものの中で,末期養子の禁はその最も著しいものであって,慶安以前に種々の原因により,除封又は減封された大名の総数169家の中,67家は跡継ぎがいないために断絶させられ,又は特恩をもって減禄に止められたものであるから,大量の浪人を生み出したのは明らかである。

 そこで,由井正雪陰謀事件の処刑が終了すると,幕府は,養子法改正に関する法令を発し,50歳以下の者の末期養子を認めることにした。慶安の養子法改正以後,諸大名が跡継ぎなく死んだために断絶した例は少なくなり,末期養子の禁は次第に緩んだ。天和年間に至ると,50歳以上70歳未満の末期養子も条件付きで認められた。浪人の数も著しく減少するようになり,正雪事件以後には,浪人の乱ともいうべきものは全くなくなった。慶安の養子法改正は,正雪や忠弥等の党与の逮捕を指揮した,「智慧伊豆」松平伊豆守信綱の献策であるということである。

♪Mr.Children「Loveはじめました」(アルバム:IT’S A WONDERFUL WORLD収録)

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