法窓夜話96~97

穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,96話と97話を取上げます。

法窓夜話

 法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,都合,96話と97話を取上げます。

法窓夜話1話~5話:法窓夜話1~5

法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15

法窓夜話21話~25話:法窓夜話21~25

法窓夜話31話~35話:法窓夜話31~35

法窓夜話41話・42話:法窓夜話41・42

法窓夜話46話~50話:法窓夜話46-50

法窓夜話56話~60話:法窓夜話56-60

法窓夜話66話~70話:法窓夜話66-70

法窓夜話76話~80話:法窓夜話76-80

法窓夜話86話~90話:法窓夜話86-90

法窓夜話6話~10話:法窓夜話6~10

法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20

法窓夜話26話~30話:法窓夜話26~30

法窓夜話35話~40話:法窓夜話35~40

法窓夜話43話~45話:法窓夜話43-45

法窓夜話51話~55話:法窓夜話51-55

法窓夜話61話~65話:法窓夜話61-65

法窓夜話71話~75話:法窓夜話71-75

法窓夜話81話~85話:法窓夜話81-85

法窓夜話91話~95話:法窓夜話91-95

96 梅博士は真の弁慶

 民法起草委員は,梅謙次郎,穂積陳重,富井政章の3人であった。その中でも梅謙次郎は,非常に鋭い頭脳を持っていて,精力絶倫かつ非常に議論に長けた人だった。梅は,法文を起草するのが非常に速かった。起草委員会で,3人が原案を議論するときは,極めて素直で,他人の批判を受入れ,すぐに,原稿を書き直した。しかしながら,原案が一たび起草委員会で定まり,委員総会に提出されると,梅は,その鋭利な弁舌を発揮して,反論を封じ,修正に対しても,一つ一つ弁解し,あくまでもその原案を維持することに努めた。時としては,余りに剛情であると思い,同じ原案者である穂積たちから譲歩を勧めたこともあった。梅が,弁論の達者であることは,法典調査会の始めの主査委員会20回及び総会100回に,梅の発言総数が,3852回に上っていることからも分る。

 ある時,委員の1人で,同じく鋭利な論弁家だった東京控訴院長長谷川喬が,総会の席上で原案に理由がないことをとうとうと論じていると,梅は,自席から「大いに理由がある」と叫んだ。すると,長谷川がは梅の方を振向いて,「君に言わせると何でも理由がある」と反撃した。このやり取りは,戯れにすぎないが,このエピソードからも,いかに梅の弁論が達者で,かつ,原案の維持に努めたかの一端を知ることができる。

 富井の起草委員ぶりは,梅と反対であった。深く黙って考え込んだ上で起草された原案は,起草委員会で他の2人がどんなに反対しても容易に屈することなく,極力原案の維持に努めて,中にはある重要な規定について,数日間討論をした末に,妥結するに至らず,富井個人の案として総会に提出して,その案が総会で採用されたこともあった。富井は,起草委員会では,極力原案の維持に努めたけれど,起草委員の原案が一たび総会に提出されると,富井は,委員全体の批評を待って,反対意見を受入れるのはやぶさかではないという態度だった。

 このように2人の態度に相反するものがあったのも,それぞれ一理あることだった。起草委員会で慎重に取調べて案を定め,最も妥当だと信じて提出した以上は,あくまでこれを維持して所信を貫こうと努めるのは当然のことで,これにより,総会の議事も精密になり,自然利害得失の問題を深く掘り下げることができるので,一歩も譲らず原案を死守するというのは,もっともなことである。また,起草委員会はあくまで原案を作るところであって,各自が充分にその所信を主張してこれに固執するは当然だが,一たび,原案を委員全体の審査に付した以上,個人の主張は議論の参考にはするが,法案は委員全体の意見によって決まるものなので,個人責任で決まる起草の際には,あくまで自説に固執するが,共同責任である総会議事では,なるべく会議の意見に従おうとするもの,もっともなことである。

 穂積が,ある時,委員の一人に,「梅君は委員総会では非常に強いが,起草委員会では本当にやさしい。『内弁慶』ということがあるが,梅君は『外弁慶』である」と言うと,委員は「それが本当の弁慶だ」と答えた。

97 法典実施延期戦

 97話は,7つの話しから構成されています。法窓夜話の中では,長編になります。民法の教科書にもチラッと書かれているいわゆるボアソナード民法の施行延期について詳細に顛末や当時の日本の法学者の実情に触れられています。

1 法典争議

 明治23年および明治25年,日本の法律家の間に法典の実施断行と延期とについて激烈な論戦があった。この論争は,日本の立法史上および法学史上極めて意味深い事柄である。
 この論争は,商法・民法の両法典の実施断行の可否に関する論争だった。明治23年3月27日に公布され,その翌24年1月1日から施行されるはずの商法と,明治23年3月27日・同年10月6日に公布され,明治26年1月1日から施行されるはずの民法に,重大な欠点があるので,その実施を延期してこれを改正しなければならないという意見と,これに対して,両法典に欠点などは存在しないし,予定どおり,実施を断行するが,当時の急務であるという意見との論争だった。

 この論争において,当時,イギリス法(英米法)を学んだ者は概ね,延期を主張し,フランス法(大陸法)を学んだ者は概ね,実施断行を主張していた。

2 民法商法の編纂

 明治維新後,政府は,様々な改革を行うと同時に,鋭意,各種法典の制定に着手した。これは,政治改革,国の事情の変化,諸藩の旧法や各地方の慣習を統一する必要に迫られたこともあるが,法典の成立を急いだのは,幕府が締結した条約を改正し,治外法権を撤廃するのに,法典の制定が条件となっていたからである。

 民法の編纂は,明治3年太政官に制度取調局を置き,箕作麟祥に命じてフランス民法を翻訳させたたのがその端緒である。明治8年民法編纂委員を命じて民法を編纂させた。11年4月に,その草案ができたが,ほとんどフランス民法の書き写しであった。その後,明治12年に,政府はフランスのボアソナードに命じて民法草案を作らせ,明治23年に公布された民法の大部分は,ボアソナードの起草によるものである。

 商法の編纂は,明治14年太政官中に商法編纂委員を置き,同時にドイツのヘルマン・ロェースレルに商法草案の起草を命じた。この草案は2年を経て完成し,取調委員の組織などに種々の変遷があったが,元老院の議決を経て,明治23年3月27日に裁可があり,翌24年1月1日から施行されることになった。

3 法律学派

 当時の日本の法学教育はというと,明治5年,司法省の明法寮で,法学生徒を募集してフランス法を教授したのが始まりである。次いで,帝国大学の前身の東京開成学校で,明治7年からイギリス法の教授が始まった。これが,日本の法学者が二派に分れる端緒である。司法省の学校は,明治17年に文部省の管轄となり,一時,東京法学校と称したが,翌年,東京大学法学部に合併されてフランス法学部となった。明治19年に帝国大学令が発布せられ,翌年法科大学にドイツ法科も設けられた。法典の発布された頃は,司法省の学校を卒業したフランス法学者,大学を卒業したイギリス法学者とが多数あった。民間では,イギリス法律を主とする東京法学院(今の中央大学の前身),東京専門学校(今の早稲田大学の前身)等があり,一方で,フランス法を教授する明治法律学校(今の明治大学の前身),和仏法律学校(今の法政大学の前身)等があって,多数の卒業生を輩出した。

 帝国大学の法科大学には英・仏・独の三科があり,私立学校にはイギリス法に東京法学院・東京専門学校あり,フランス法に明治法律学校・和仏法律学校あり、ドイツ法律家はまだ極めて少数であったので,あたかも延期問題の生じた時,日本の法律家は英仏の二大派に分れていたのである。

4 延期戦の起因

 このような状況下で,フランス人の編纂した民法とドイツ人の編纂した商法とが公布された。しかも商法は,1000条余りの大法典でありながら,公布後わずか8か月後に,法律に慣れていない商業者に対してこれを実施しようとしたので,一騒動の起るのは,自然なことであった。

 政府が憲法の施行,帝国議会の開会を控えながら,これらを待たずに,慌てて二大法典を公布したのは,憲法施行や帝国議会を軽視した嫌いがないわけでもないが,実情は,法典編纂が治外法権撤去の条件となっていたので,もしこれを帝国議会に付すると,手続に手間どるおそれがあったからである。

 にもかかわらず,第1回帝国議会は,民法・商法の公布された年の11月に開かれ,商法の施行日は,そのわずか1か月後に迫っていたので,この法典を実施すべきか延期すべきかが,第1回帝国議会の一大問題になった。これに先立ち,大学卒業生からなる法学士会は,政府が法典の編纂を急ぎ,民法・商法は帝国議会の開会前に公布されると聞いて,明治22年春期の総会において,全会一致で,法典編纂に関する意見書を発表し,かつ,同会の意見を内閣の各大臣および枢密院議長に陳情することを議決した。その意見書には法典の制定・施行を速くすることの非を記してあったが,これが導火線となり,当時の法律家間で,法典の公布・施行の可否が盛んに論じられた。

 英仏両派の主張は明確で,イギリス法学者は概ね延期論を主張し,これに対して,フランス法学者は概ね断行論であった。富井・木下両名がフランス派でありながら,延期論を唱えられていたのが異彩を放っていたくらいである。

5 商法延期戦

 このように,法典公布前から論争は始まっていたが,法典は公布され,施行日が迫ってきた。イギリス法派は,第1回帝国議会において,極力その施行を阻止しようと,商法の施行期限を明治26年1月1日,つまり,民法の施行日まで延期するという法律案を衆議院に提出することにした。これが,法典実施延期論の開戦で,イギリス法派は法学院を根拠として戦備を整え,フランス法派は明治法律学校を根拠として陣容を整え,双方とも両院議員の勧誘に全力をつくしたり,意見書を送付たり,訪問勧誘を行ったり,商工会その他の実業団体から請願書を提出させるなどした。一方,政府側は,極力,断行派の運動を助け,また新聞も社説や雑報などにおいて,断行派を支持した。双方の法律家は,各でに演説会を開くなど,敵味方とも死力を尽くした。12月15日の議案に上る前夜に,双方が激昂する余り,中には議員に対して脅迫状を送った者さえもあった。

 衆議院での延期法案の審議は,12月15・16の両日にわたった。延期派のイギリス法学者では元田肇・岡山兼吉・大谷木備一郎等の法学院派,その他関直彦・末松謙澄等が主な発議者であった。断行派のフランス法学者では井上正一・宮城浩蔵・末松三郎等が,最も有力なる論者であった。結果は,延期説賛成者189に対し,断行説賛成者67で,延期派が勝利した。

 衆議院で可決した商法施行延期法案は貴族院に回付され,12月20日に同院の審議に付され,穂積も加藤弘之等とともに延期論者に加わったが,同院においても二日間の激論の末,延期説賛成者104に対し,断行説賛成者62で,延期派の勝利に終わった。同年法律第108号をもって,商法の施行期限を明治26年1月1日つまり,民法施行と同じ期日まで延ばすことになった。

6 民法延期戦

 法典の施行延期戦は,商法については延期派の勝利で終わったが,同法は民法施行期日と同じ日まで延期されたので,断行派が2年後に,名誉挽回を期したのは,当然のことである。また,延期派は,既に,第一戦で勝利を占めたので,この勢に乗じて,民法の施行も延期し,法典を廃して,新たに民法・商法を編纂しようと企てた。なので,その後は,何となく,英仏両派の間に殺気立って,今にも嵐が起きそうなただならぬ気配が漂っていた。

 明治25年春,江木衷・奥田義人・土方寧・岡村輝彦・穂積八束を始め,松野貞一郎君・伊藤悌次君・中橋徳五郎等法学院派の法律家11名が「法典実施延期意見」を発表した。この意見書は,翌年1月1日に施行される民法の施行日を延期し,民法を修正しろというものであった。延期の理由として挙げた7か条は,「新法典ハ倫常ヲ壊乱ス。」など,民法を根本的に攻撃した随分激烈なものであった。

 この意見書に対して,明治法律学校派の岸本辰雄・熊野敏三・磯部四郎・本野一郎を始め,宮城浩蔵・杉村虎一・城数馬等が発表した「法典実施断行意見」は,「法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ秩序ヲ紊乱スルモノナリ。」などと,激烈であった。

 この2つの意見書が,両派の最初の一斉射撃であって,双方負けず劣らず多数の意見書を議員・法律家・その他各方面に配布した。当時,穂積も法律上の民法の主な欠点を簡単に論じたものを延期派の事務所に送り,意見書の中に加えるように頼んだが,「意見はもっともだが,効果があまりないので,採用しない」と差し戻された。上記の意見書から分かるように,激烈な論争の場に,法典の法律上の欠点を指摘するなどということは,まったく意味をなさないものであった。

 要するに,議員を動かして,来るべき議会の論戦において多数を得ることが目的だった。その目的に絶大な効果を発揮したのが,延期派の穂積八束が「法学新報」第5号に掲げた「民法出デテ忠孝亡ブ」と題した論文であった。双方からたくさんの脅し文句があったが,このように覚えやすくて口調のよい警句は,群衆心理を支配するのに偉大なる効果があった。

 明治25年に,「民法商法施行延期法案」は5月16日に,まず,貴族院に提出された。これに関する審議は,同月26・27・28日の3日間にわたって行われ,賛否両方の論争は,激烈であった。27日午後の審議では,議論が沸騰し,議場が喧噪を極めたため,議長蜂須賀茂韶が号鈴を鳴らして議場の整理を行うという有様であった。原案に反対した人々の中には箕作麟祥・鳥尾小弥太子らがいて,原案を賛成した人々の中には加藤弘之・富井政章・村田保等がいた。採決の結果は,延期を賛成者123,断行賛成者61で,延期派が勝利した。

 貴族院から回送された延期案は,6月3日,衆議院に送られ,同案は同月10日の本会議に付せられることになった。原案採決の結果,延期説賛成者152に対し,断行説賛成者107で,延期法案は可決確定した。

7 戦後における両学派

 明治23年における商法延期戦は,言わば天下分け目の関ヶ原の合戦であって,次いで当然に起るべくして起った25年の民法商法延期戦は,あたかも大阪陣のようなものであった。天下の大勢は,関ヶ原の合戦ですでに定ったものの,なお大阪での戦はどうしても避けることが出来ない勢いであったのである。そしてこの大阪陣を経て始めて大勢が一に帰したのである。

 延期戦は,単に英仏両派の競争より生じた学派の争いのように見えるが,この論争の原因は,両学派の執る根本学説の差違にある。ようは,自然法派と歴史派との論争にほかならないのである。フランス法派は,自然法学説を信じ,法の原則は,時と場所を超越するものであり,いずれの国,どの時代においても,同一の根本原理に拠って法典を編纂すべとする。歴史派は,国民性や時代などに重きを置き,自然法学説を基礎としたボアソナード案の法典に反対するようになったのは当然の事である。この論争は,同世紀の初に,ドイツで起きたザヴィニー・ティボーの法典論争とその性質において異なる所はないのである。

♪Mr.Children「擬態」(アルバム:SENSE収録)

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