法窓夜話21~25

穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。21~25を取上げます。

法窓夜話 

 法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。

 思うところあって,そんな法窓夜話の内容をまとめておこうと思い立ちました。今回は,21話~25話をまとめておきます。

 法窓夜話の1話~5話:法窓夜話1~5

 法窓夜話の6話~10話:法窓夜話6~10

 法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15

 法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20

21 法律の事後公布

 江戸時代,刑法に当たる法律は秘密にされていた。しかし,刑の執行は,公衆の前で行い,見せしめにしていた。そして,刑場に,罪状と刑罰を記載した捨札と呼ばれる高札を立てた。また,罪人を引き回す際も罪状と刑罰を記載したのぼりを馬の前に立てて,市中引き回しにした。

 このように,法律は秘密にされたが,裁判の結果を公にすることで,人々は,どんな犯罪が,どんな刑罰に処せられるかを理解することができた。

 京都でも,罪人を市中引き回しにする際,のぼりに罪状を記載して,その罪状を声高に叫んでいた。通りの家は,暖簾を外して,その様子をひれ伏して見るのが慣例だった。赤井越前守が京都町奉行に任命された後,これを廃止したことがあった。翁草の著者は,それを批判した。刑法は公法で,罪状をのぼりに書いて,それを叫ぶのは,将来の戒めにするためである。人々はこれを謹んで承るようにと。

22 法服の制定

 裁判官・弁護士が着る法服は,文学博士黒川真頼の考案によるものである。弁護士にも法服があったことは,裁判官が法服を着る理由にちょっと書いてます。

 閑話休題,欧米の法曹界では,多くは古風で雅な法服を用いて法廷の威厳を添えていた。そこで,裁判所構成法制定当時の司法卿山田顕義は,日本でもという考えで,黒川博士にその考案を委託した。黒川は,聖徳太子以来の服制を調査し,これにヨーロッパのものを加味して,法帽法服を考案した。法服が制定された当時の東京美術学校の教授服も黒川の考案で,法服によく似ていた。

 ある日,東京地裁から1枚の令状が黒川の元に届いた。黒川が驚いて,令状を見ると,とある事件の証人として出頭しろというものだった。めんどくせーなと思いつつも,黒川は,当日,教授服を着て,裁判所に出頭した。黒川が予定時刻により早く裁判所に着くと,職員が黒川を丁寧に案内し,「開廷まで少し時間があるので,ここでお待ちください。」と言って,高い立派な椅子を用意して,敬礼して去っていった。

 そして,開廷の時間になり,判事たちが自分の席にやってきた。すると,判事たちは,黒川が法服を着て平然と判事の席に座っているので驚き,怪しんだ。判事たちが黒川に「なぜ,ここに座ってるのか?」と尋ねると,黒川は,その経緯を話した。あまりの出来事に判事たちは思わず失笑し,黒川に「ここは判事の席で,証人の席は向こうです。」と指差した。ここで,黒川もこの事態に気づき,職員のそそっかしさをおかしく思った。帰宅後,黒川は,「今日は,黒川判事になった。」と言ったらしい。

23 法学博士

 博士号は,日本の古代の官名で,大博士・音博士・陰陽博士・文章博士・明法博士などがあった。しかし,現在の法学博士は学位であって,明治20年の学位令によって設けられた。

 博士は,古代,「ハカセ」と読んでいたが,現在は,「ハクシ」と読むことになっている。学位令発布当時,森有礼は,半分冗談半分真面目に「「ハカセ」の古訓を使ってもいいけど,「ハ」を濁らせて,「バカセ」と言われたら,学位の威厳をけがすからなぁ」と言った。

24 妻をもって母となす

 コーランの一節に,「神は一人に二つの心を与えず。故に神は爾らの妻を爾らの実の母となすことなし。」というのがある。

 結婚した夫婦が離婚することがある。離婚した際に妻に帰る家がないことがある。また,男の中には,夫婦の縁は切りたいが,妻が家を出て,よその家に再婚するのは,おもしろくないという未練たらしいものがいる。

 古代アラブ人にも,そんな男が多かったようで,こんな離婚システムを作った。妻に向かって,「あなたは,今日から私のお母さんです。」という宣言をする。この宣言により,夫婦関係は終了し,以後,実母として奉仕しなければならない。実際は,隠居として単に敬遠するだけである。

 この離婚システムは,自分勝手で女性を軽視しすぎたもので,ムハンマドは,冒頭のように記し,このシステムを廃止した。

25 動植物の責任

 近世の法学者は,自由意思によって責任の基礎を説明しようと試みる者が多い。人は良心を持っている。だから,自ら善悪を判断することが出来る。人の意思は自由である。なので,善行・悪行を行うのは,全てその自由意思に基づくものである。このような事理弁識能力を持ちながら,なお自由意思をもって非行を敢えてするものがいる。人に責任が存するのは,こういう理由からである。

 そして,動植物には,良心も自由意思ないので,動植物に責任が存在する理由はないのである。しかし,近世の心理学がこの説の根拠を覆えし,歴史上の事実からもこの説は誤っているといえる。

 原始社会の法律は,動植物に対して訴えを提起し,刑罰に処した例が多い。イギリスのアルフレッド大王は,人が樹から落ちて死んだときは,その樹を斬罪にするという法律を作った。ユダヤ人は,人と突き殺した牛を石殺の刑に処した。古代アテナイのソロンの法に,人を噛んだ犬を晒し者にする刑罰がある。ローマの十二表法に,四足獣が傷害をなしたときは,所有者は賠償をするか又は行害獣を被害者に引渡して,思い通りにさせるという規定がある。また,ウルピアーヌス・ガイウスによれば,行害獣を引渡す規定は,幼児・奴隷が人を傷害したとき,人が無生物から損害を受けたときにも適用される。

 中世のヨーロッパでも,動物に対する訴訟手続が各国の法律に存在する。フランスでは,動物が人を殺した場合に,飼主がその動物に危険な性質のあることを知っていたなら,飼主と動物とを併せて死刑に処し,飼主がこれを知らないか,又は飼主がいない場合は,その動物のみを死刑に行うという規定があった。

 1314年バロア州で,人を突き殺した牛を被告人として公訴を提起した。証人の取調,検事の論告,弁護士の弁論,すべて通常の裁判と異なることなく,審理が行われ,牛は絞首刑に処せられた。

 1584年ヴァランスで,長雨により毛虫が大量に出現した。毛虫が成長するにつれて,住居侵入,安眠妨害を行い,村人は被害を被った。そこで,牧師が村人のために,毛虫追放の訴訟を提起することになった。弁論の末,被告毛虫に退去命令が出た。しかし,被告毛虫は,裁判所の命令に従わない。裁判官がいかにして裁判の強制執行をしようかと評議をしていたところ,被告毛虫は,蝶になって飛んで行った。

 シャスサンネは,オーツ州でネズミの裁判で弁護をしたことで有名になった。この裁判で,シャスサンネは3回延期を請求した。3回目の延期請求の時,シャスサンネは「ここは,ネコを飼っている家が多い。被告が出廷のたび命の危険がある。裁判所は,被告の保護のため,ネコの飼主に命じて,開廷日にネコを家の外に出さないという保証書を出してほしい。」と弁論した。裁判所は,閉口した。出頭のために被告を保護するのは当然なので,この請求は退けるわけにはいかない。でも,実行するのは,めんどくさい。そこで,裁判は無期延期ということになった。

 刑罰を正義の実現であるとする絶対主義は,高尚な理論で,目をもって目に報い,歯をもって歯に報ゆる復讐主義は,野蛮な思想だと説く学者も多い。しかし,絶対主義論者が信賞必罰は正義の要求であるとするのも,復讐主義において害を加えた動植物又は人類に反害を加えて満足するのも,同じ心的作用,人類の種族保存性から来ている。

 相対主義論者は,刑罰は社会の目的のために存しているという。しかし,その目的の中には,直接被害者である個人,およびその家人,親戚並に間接被害者である公衆の心的満足をも含んでいることを忘れている。木を斬罪にし,牛を絞刑にする等は,文明の刑法にも存在してしかるべきものである。「正義の要求」とは,この心的満足をいいあらわしたものではないか?

♪Mr.Children「Dance Dance Dance」(アルバム:Atomic Heart収録)

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