穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,36話~40話を取上げます。
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法窓夜話
法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。
思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,36話~40話をまとめておきます。
法窓夜話1話~5話:法窓夜話1~5
法窓夜話6話~10話:法窓夜話6~10
法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15
法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20
法窓夜話21話~25話:法窓夜話21~25
法窓夜話26話~30話:法窓夜話26~30
法窓夜話31話~35話:法窓夜話31~35
36 女子の弁護士
古代ローマで,女性が弁護士になるのが許されていた時代があり,ホルテンシア・アマシアといった錚々たる女性弁護士が活躍していたようだ。
しかし,アフラニアという女性弁護士が恥ずべき行為を行ったため,女性弁護士を禁止しようという話しが出てきた。そして,テオドシウス1世が,法律で女性弁護士を禁止するに至った。しかし,この理屈でいうと,男性弁護士も禁止しないといけない。
37 処分可レ依二腕力一
13世紀初めに書かれた故事談に,こんな逸話がある。
鳥獣戯画の作者じゃないかと言われたこともあった鳥羽僧正が,死に瀕していた時,弟子が相続財産の処分を決めておいてくれと,しきりに頼んだ。鳥羽僧正は,弟子があまりにうるさいので,一筆書いて,弟子に預けた後,死亡した。
弟子たちが,遺言に基づいて相続財産を分配しようと,遺書を開くと,「処分は腕力で決めろ」とだけ書かれていた。これには,弟子たちも唖然とし,その場で取っ組み合いをするわけにもいかず,互いに頭を悩ませていた。そのことが,白河法皇の耳に入り,勅裁により,分配方法を決められた。
38 決闘裁判
刑事裁判の起源は復讐であることは,争いようがない事実である。その最も顕著な証拠は,かつては,刑事訴訟の起訴者が,国家ではなく,私人であったことである。つまり,被害者又はその親戚が起訴し,原被両告の対審となる民事訴訟と同様であった。中世のイギリスには,その規則があり,殺人に関する私訴が最も有名である。
そんな古風な慣習であるが,決闘裁判というさらに古風な慣習が存在した。被告は,原告と決闘し,正悪を決定することを請求することができた。手袋を投げ入れるのが,その請求の儀式だった。
決闘裁判は,長らく行われることがなく,1770年・1774年の議会で廃止案が提案された。しかし,元来,保守的で昔からの慣習を変えたがらないイギリスは,実際に決闘を請求する人なんかいないし,わざわざ廃止しなくても良くない?ということで,廃止案は,可決されなかった。
その後,1817年に,アッシフォード対ソーントン事件という訴訟が起きた。この訴訟は,アブラハム・ソーントンが,メリー・アッシフォードという少女を溺死されたとして,アッシフォードの兄弟が起こした殺人私訴だった。裁判の当日,答弁と求められた被告は,毅然と立ち上がり,「自分は無罪だ。あえて,この身をもって,争うことを求める。」と述べると,手袋を投げ入れた。そう,決闘裁判の請求手続である。
この被告の恐ろしい叫びは,長らく決闘を忘れた人々を驚かせた。陪席判事は,決闘裁判に関する法律は形式上,存在しているが,古代の蛮法であり,数百年間行われていないので,事実上効力を失っているとして,被告の請求を退けようとした。しかし,判事エレンボローの「これ国法なり」の一言で,決闘の許可を与えることになった。しかしながら,決闘が行われることはなかった。被告のあまりの剣幕に恐れをなした原告が,訴えを取り下げたからだ。
この裁判は,これで終わったが,世論は収まらなかった。決闘裁判なんて野蛮な慣習をなくすには,復讐に端を発した殺人私訴を廃止すべきだという議論が盛んに行われた。そして,1819年の議会で,殺人私訴法を決議した。これにより,殺人その他重罪の私訴は廃止され,決闘裁判の請求もソーントンが最後となった。
39 板倉の茶臼、大岡の鑷
板倉周防守重宗は,徳川幕府成立からの名臣で,父の推薦で京都所司代となった。
重宗は,ある時,近臣に,「自分の裁きは,世間でどんな感じに受取られてる?」と尋ねた。近臣は「威光に押されて,言葉をつくしにくいと申してます。」と答えた。これを聞いた重宗は,自分が間違ってたといったが,その後の法廷で面目躍如することになる。
白洲に臨む縁先の障子は締め切られ,障子の後ろに所司代席を設け,傍らに茶臼を置いた。重宗は,まず,西の方へ拝んでから,その場に座り,茶をひきながら訴えを聞いた。ある人が,怪しんで重宗に聞いたところ,重宗は,こう答えた。「裁判に,少しも私心を挟んではならない。西の方へ拝むのは,愛宕の神に,私心を挟んだら神罰を受けることを誓っているのだ。茶をひきながら訴えを聞くのは,粉の細かさによって,心の動静を見て,判断の確否を知るためである。また,人の外見は様々で,美醜によって愛憎が起きる。愛憎があれば,不公平が生じる。障子を閉じて,人の顔を見ないのは,そのためである。」
大正4年,江戸博覧会が不忍池畔で開催された。博覧会に大岡忠相の遺品が展示されていた。その中に,子爵大岡忠綱が出展した鑷(毛抜き)が4つあり,説明書には,「大岡越前守忠相が,奉行所で罪を裁く際に,常に目を閉じて,あごひげを抜くために使った」と記されていた。
大岡忠相がひげを抜いたのも,板倉重宗が茶をひいたのも趣旨は同じである。心を平静にし,注意を集中し,公平な判断をしようという精神にほかならない。目を閉じて訴えを聞くのも,障子超しに訴えを聞くのも同じ趣旨だろう。
40 模範的な事務引継
板倉重宗が京都所司代を辞職した時,政務は大小問わず整理尽くされ,出訴中の事件はすべて裁決が終わっていて,後任者を煩わせることは一つもなかった。しかしながら,当時,話題の疑獄で,世間の注目を集めた事件だけは,そのままにして,引き継いだ。
そこで,口の悪い京都人は,「重宗でさえ持て余したこの事件を,後任の牧野佐渡守なんか歯が立つわけがない」とはやし立てていた。牧野がその事件の裁決を下したのを見ると,調査は詳細で,判断は公平で,関係諸役人をはじめ,不安視していた京都の人をあっと言わせた。重宗に勝る牧野だということで,新所司代の評価が高く,すぐに,威望・信任を集めた。
そもそも,この疑獄は,重宗が早くから最も注意を尽くして,調査に調査を重ね,すでに判決を下すだけの状態だったが,辞職の際に,この事件だけ残し,詳細な意見書を添えて牧野に引き継いだ。牧野は,重宗の判決を自分の名前で下しただけであった。最後の名声を捨て,後進に花を持たせた先輩の懐の深さ,己を犠牲にし,官庁の威信を高めた態度,心惹かれるものがある。
♪Mr.Children「FIGHT CLUB」(アルバム:REFLECTION {Naked}収録)