穂積陳重著「法窓夜話」の続編です。今回は,ハンムラビ法典スペシャルです。
法窓夜話
法窓夜話は,明治時代の法学者である穂積陳重が,古今東西の法律の小話を100篇まとめたものです。法窓夜話と続編の続・法窓夜話にそれぞれ各100篇,合計200編の法律にまつわる小話がまとめられています。
思うところあって,そんな法窓夜話の内容を個人的にまとめておこうと思い立ちました。今回は,41話と42話の2話です。いつも5話ずつなのに,なぜ,2話なのかは,42話を読んでもらえれば,わかります。いつもより,ちょっと大変でした…
法窓夜話1話~5話:法窓夜話1~5
法窓夜話6話~10話:法窓夜話6~10
法窓夜話11話~15話:法窓夜話11~15
法窓夜話16話~20話:法窓夜話16~20
法窓夜話21話~25話:法窓夜話21~25
法窓夜話26話~30話:法窓夜話26~30
法窓夜話31話~35話:法窓夜話31~35
法窓夜話35話~40話:法窓夜話35~40
41 オストラキズムス
ギリシャの陶片追放(オストラキスモス)の話しです。
アテネの名士テミストクレスが,オストラキスモスを行い,政敵アリスティデスを追放し,自ら国を統治し,ペルシャを破ったことは知られている。ところで,オストラキスモスとは何なのか?
アテネは民主主義の結果,中央政府の権限が弱く,軍を動かす権限がなかった。そのため,誰か野心のある人物が,人心を掌握することができれば,政府を転覆させるのは,簡単なことだった。紀元前509年,クレイステネスがオストラキスモスという新法を作ったのも,そのような政治家の勢力をまだ芽の内に,摘み取り,危険を防止するためであった。
オストラキスモスは一種の弾劾投票である。毎年,第1回の民会において,まず,オストラキスモスを行うかどうかを決める。オストラキスモスを行うと決まれば,次の民会で,執政官及び五百人会議員立会の上,市民に弾劾に当るべき人を投票させる。その投票は牡蠣みたいな貝殻に記入した。この貝をオストラコンというので,オストラキスモスという名称が付いた。開票の結果,6000票以上獲得した人は,10年間(後,5年に短縮),国外に追放させられた。
ただ,これは,刑罰ではなく,保安条例の一種なので,名誉権・市民権・財産権等には影響はなく,上記の期限が過ぎて帰国すると,再び以前の身分を回復することができた。期限前でも民会の決議によって召還させられることもあった。
最初に弾劾されたのは,ヒッパルコスである。立案者のクレイステネス自身も新法制定の翌年に,ペルシャと通じたとして,商鞅(中国・秦の政治家)と同じ運命をたどった。他にも,アリスティデス,テミストクレス,キモン,ツキディデスといった諸名士も弾劾された。その理由は,オストラキスモスが政争の手段として用いられていたからである。二党対立の際は,合意の上で,どちらが政権を取るかをオストラキスモスによって決めることもあった。
紀元前416年に,二党が仕組んで,ヒペルボロス一派を追い落とすのに使われたため,オストラキスモスの価値が損なわれ,以後,行われなくなった。
42 ハムムラビ法典
「目には目を歯には歯を」でお馴染みのハンムラビ法典の話しです。法窓夜話には,こんな形式もあったんですネ…ということで,今回は,ハンムラビ法典スペシャルです。
①法律史上の大発見
19世紀,法律史上の大発見が2つあった。1816年,ニーブルがイタリア・ヴェローナの寺院の書庫で,ガイウスのインスチツーチョーネスを発見した。1884年,ハルブヘールとファブリチウスが,ギリシャ・クレート島で2000年以上前の法律であるゴルチーンの石壁法を発掘した。
②ハムムラビ石柱法の発見
そして,20世紀の法律史は,前代未聞の大発見から始まる。1901年12月~1902年1月にかけて,ペルシャの古都スザの廃墟で,フランスの探検隊ジョセフ・ド・モルガンの下に,世界最古の法律ともいうべきハンムラビの石柱法を発見したのである。
フランス政府は,その石柱法をシェイルにフランス語に翻訳させ,法文を写真版として出版した。世界の至宝ともいうべきハンムラビの石柱法は,ルーブル博物館に陳列されている。
③発見の予言
1874年,イギリスのジョージ・スミスがニネベおよびバビロンの廃墟を発掘し,数多くの粘土板の記録を発見した。これにより,旧約聖書中の世界創造や大洪水などの伝説は,モーゼの時より数100年前すでに,バビロンに存在した記録に基づいて作られたものではないかとの疑問が起こり,歴史家・宗教家の間に,一大論争を巻き起こした。
その後,アッシリア王アッシュルバニパルの図書館が発掘され,その中にあった粘土記録の破片は,アッシリア学者は,アスールバニパル王の法典の一部であると考えた。マイスネル博士が,破片を調べたところ,破片の法文はその文体から古バビロン時代に属するものだとわかり,1898年にその説を発表し,この破片の本体たる法典はアスールバニパル時代のものではなく,バビロン王朝の初期に属するものであろうと言った。
デリッチ博士は,マイスネル博士の説を支持し,さらに,一歩を進めて,その法典はバビロン建国第一期時代のハンムラビ王が当時の法律を集めて編纂したものだろうと推測した。コード・ナポレオンの称呼にならい,コード・ハンムラビという名称を用い,必ず,バビロンの遺構からその全部を発見する時があるに違いないと予測した。
ハンムラビ法典の発見は,天文学でいう海王星の発見と重要度では,何の違いもないほどの大発見と言わざるを得ない。
④石柱法
ハンムラビ法典は,円形の石柱に彫刻してある。1901年12月末日,石柱の破片2個を発掘し,次いで翌年1月の初めに2個の破片を発掘した。3個の破片を合せて見ると,1つの円柱の全形をなし,その高さは2メートル20センチメートルで,その周囲は上部において165センチメートル,下部において190センチメートルで,ほぼ棒砂糖の形をし,上に行くに従って,細くなっている。その高さは,人が立って読むのに適している。円柱の石質はデオライトという極めて堅い石でできている。
石柱の両面に楔形文字が彫り付けてある。表面は21欄に分かれ,1欄毎に65行~75行の文を刻まれ,裏面は28欄に分かれ,1欄毎に95行~100行の文を刻まれ,両面において総計3000行の楔状文字が刻まれている。総計282条の法規が刻まれているが,そのうち表面の5欄にあった第66条~第99条は,後に,削除されたようで,現在,確認できるのは,248条のみである。その後,シェイルは,ブリティッシュミュージアムに保管してある粘土板の破片から削除された3か条を填補した。34か条が,なぜ,削除されたのか,理由は定かではない。後に,バビロニアを制服したエラム王のスートルーク・ナクフンテが,勝利記念文を彫るために削られたのではないかと言われている。
この石柱は始めシッパールのエバッバラの,日の神の神殿の前に建っていた。紀元前1100年頃,エラム人の王スートルーク・ナクフンテがバビロンを征し,戦利品としてこの石柱をスザに移した。ハンムラビの石柱法はいろいろな場所に建てらていて,スザで発見されたこの石柱の以外にも数個あったらしい。すでにスザでも第二の破片が発見され,またバビロンのエサジラの神殿前にも建てられていた。
石柱の表面の上部には、日の神シャマシュの像が浮き彫りにしてある。日の神は頭に四層冠を戴いて王座に着き,肩の辺より左右に3つずつ後光を発し,右手に長い物を持って授けるような形をし,左手には円形の物を持っている。解釈はいろいろあるが,この法が神授の権によって立てられ,この法の効力の基礎が神意にあるということだけは明らかである。
⑤石柱法の内容
この石柱法の内容は,私法(民法等),刑法,公務員制度に関するのもが中心で,他の原始的法律と異なり,訴訟法・裁判所法に関するのもが極めて少ない。原始的法律は,おおむね,賠償,刑罰,訴訟に関するものが多く,私法は慣習法となっている。この石柱法に,私法の規定が多いのは,古代法中の異例であり,研究に値すべきものである。
この法律は,他にも他の原始的法律にない特徴があり,学者が説明に苦しむ点が多い。たとえば,女性の法律上の地位が非常に高く,他の原始法では,女性は独立の身分はないだけでなく,通常,物として男子の所有に属するものである。しかし,この法律では,母を「家の神」と称し,酒類の販売を女性の専権とするなど,女性の権利に関するものが多い。また商工農業,運河,造船,医師,獣医,契約代理等に関する規定の多いことも挙げられる。
この法律の規定は,おおむね,因果法の規定となっていて,命令法の体裁をなしているものはほとんどない。例えば,「何々をなすべし」または「何々をなすべからず」という規定ではなく,「何々をなしまたはなさざれば何々の結果あるべし」という規定になっている。古代の法でもモーゼの十戒などは命令法であるが,旧約聖書中に掲げてある他のモーゼの法律,十二表法,ドイツの民族法などを始めとし,原始法は因果法の体裁をなしているものである。したがって,ジェレミヤスは,ハンムラビ法典の規定は判決例から作ったものであるから,このような体裁になっていると言っている。
⑥世界最古の法典
ハンムラビ法典はこれまで発見された法典の中では最も古いものであって,仮に紀元前2000年説によっても,旧約聖書中に載せてあるモーゼの法律と称するものより600年~700年ほど前に出来たものである。
ハンムラビ法典はマヌー法典より約1000年前である。またギリシャのリクルグスの法律は紀元前800年頃であるから,ハンムラビ法典に遅れること約1300年,ソロンの法律は紀元前600年頃なので,ハンムラビ法典に遅れること約1500年,ゴルチーン法は紀元前500年代のものとすれば,ハンムラビ法典に遅れること約1600年である。ローマの十二表法は紀元前450年であるから,ハンムラビ法典に遅れること約1650年である。
このように,ハンムラビ法典は,これらの有名な古代諸法典より5・600年~1000年以上も古いものであり,世界最古の法典というべきものである。しかし,これはただ,法典の成立年代の話しである。法典の内容で比較すると,4000年の古代にバビロンの文化がすでに,進歩していたことは明らかで,この法典の体裁および法規も決して最原始的のものということはできない。
⑦ハムムラビ王
ハンムラビは,バビロン第一統第六世の王で,旧約聖書のアムラフェールと同一人物である。ハンムラビ王の治世の時代およびその年数は正確にはわかっていない。当時は建国又は王の即位などの出来事から年数を計算するということがなく,ただ年々の最も著しい出来事からその年の号を付けて,例えば「洪水の年」「エラム戦争の年」「日神殿建立の年」というように書いてあるので,発掘せられた「約板」等に書いてある年号について,学者の解釈が一致していない。しかしながら,多数の学者はハンムラビ王の治世は,紀元前2250年頃だと考えている。
ハンムラビ王は即位以後30年間は,平穏に治めるように努力し,祭祀を尊び,民衆の訴えを聞き,運河を造るなどし,人心を掌握し,国力を高めた。即位30年目に,戦争をしかけ,数年後にバビロニアを統一した。統一前のハンムラビの王国は,バビロニアの北部の一王国だった。ハンムラビ法典は,統一後の治安策・統一策のために制定されたもので,ハンムラビ王の晩年の功績である。
⑧ハムムラビ法典とモーゼの法律
ハンムラビ法典の発見は比較法学上,様々な新たな問題を引き起こした。その中で,最も重要なのは,ハンムラビ法典とモーゼの法律の関係である。主に以下の4つの説がある。
A説:モーゼの法律は直接にハンムラビ法典を継受したものである(直接継受説)
B説:間接にアラビア人を通じて継受したものである(間接継受説)
C説:両法共にアラビア古法より来たものである(共同法源説)
D説:この二法の類似は,古代法において観るところの偶然に過ぎない(暗合説)。
上記の4つ以外にも様々な学説があり,見解の一致は見ないが,多数の学者はこの二法の間には本末または共源の関係があることを認めているようである。
⑨ハムムラビ法典に関する書籍
海外文献がいくつか挙げられていますが,翻訳されてるかわからないし,おそらく誰も読まないと思うので,すべて省略します。
♪Mr.Children「memories」(アルバム:SOUNDTRACKS収録)